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1219年(建保7年)、三代将軍源実朝が暗殺されると、北条政子は親王を将軍に迎えようとするが後鳥羽上皇に拒否されたため、九条道家の三男・三寅(のちの頼経)が将軍に迎えられた(摂家将軍)。 頼経は、源頼朝の姉(妹)坊門姫の曾孫。 1226年(嘉禄2年)、第四代の征夷大将軍に任ぜられる。 頼経の時代には、大倉幕府が宇津宮辻子に移され、さらに若宮大路に移されている。 1230年(寛喜2年)12月9日、二代将軍源頼家の娘竹御所を正室に向かえた。 1231年(寛喜3年)、幕府政所の鬼門に明王院を建立。 約20年間、将軍職を務めたが、1244年(寛元2年)、四代執権北条経時に将軍職を負われ、1246年(寛元4年)、五代執権北条時頼によって鎌倉を追放された(宮騒動)。 |
※ | 北条政子は、実朝に嫡子がないことなどを理由として、実朝在任中より親王を将軍に迎えようと画策していた。 |
※ | 頼経の幼名「三寅」は、寅年・寅月・寅刻の生まれによるものらしい。 |
![]() ![]() (妙本寺) |
![]() (頼経創建) |
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鎌倉幕府四代将軍・・・藤原頼経(okadoのブログ) |
『吾妻鏡』によると、1238年(暦仁元年)に上洛した頼経は、賀茂祭を見物したらしい。 上賀茂神社・下鴨神社・八坂神社・北野天満宮・吉田神社にも参詣した。 |
四代将軍頼経の子。 1244年(寛元2年)に元服し、頼経に変わって五代将軍となったが、反北条(執権)勢力に利用されるようになり、1251年(建長3年)、北条時頼によって鎌倉から追放された。 翌年、時頼は宗尊親王を将軍に迎えている(親王将軍)。 |
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東福寺は、頼経の父道家の創建。 特別由緒寺院の最勝金剛院は、九条家の菩提所。 |
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