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鎌倉幕府二代執権北条泰時(ほうじょうやすとき)は、1183年(寿永2年)に誕生。 父は二代執権北条義時。 母は阿波局。 幼名は金剛。 鎌倉北条九代 |
泰時の母は阿波局は、北条時政の娘で源頼朝の弟阿野全成の妻となった阿波局とは別人。 御所の女房だったということのみで詳しいことは不明。 佐々木盛綱の子・加地信実の娘とも言われるが年代が合わない。 頼朝の最初の妻で、父義時と結婚したかもしれないという八重姫ということも・・・ |
江間四郎・江間小四郎と呼ばれた北条義時 |
泰時は北条義時の長男とされるが、伝説によると泰時には兄がいたのだという・・・ |
北条義時の嫡子安千代丸と大蛇の伝説 (北條寺創建伝説) |
1194年(建久5年)2月2日 |
13歳で元服。 烏帽子親は源頼朝。 頼朝の一字を賜わり「頼時」と名付けられた。 この元服式で頼朝に呼ばれた三浦義澄は、孫娘を娶らせる約束をしたのだという。 「泰時」に改名されたのは頼朝の死後と考えられている。 |
小鹿を射止めた金剛(泰時)と矢口の祭り 北条泰時の元服式と正妻の矢部禅尼 女性問題で蟄居させられた北条義時の次男朝時 |
1201年(建仁元年)10月3日 |
伊豆国で出挙米の返済を免除。 |
北条泰時の徳政 蹴鞠に熱中した鎌倉殿:源頼家 |
1202年(建仁2年)8月23日 |
三浦義村の娘(矢部禅尼)と結婚。 |
1203年(建仁3年) |
長男時氏が生まれる。 母は矢部禅尼。 この後、次男誕生までの間に泰時と矢部禅尼は離別(理由は不明)。 |
北条泰時の元服式と正妻の矢部禅尼 |
1203年(建仁3年)9月2日 |
比企能員が北条時政に暗殺される。 泰時は、北条政子の命により義時らとともに比企邸を攻め、一族を滅亡させた。 |
1212年(建仁3年) |
次男時実が生まれる。 母は安保実員の娘(継室)。 |
1213年(建暦3年)5月3日 |
義時とともに侍所別当の和田義盛を滅ぼす。 |
和田合戦の褒賞を固辞した北条泰時 |
1218年(建保6年)7月22日 |
侍所の別当に就任。 |
1221年(承久3年) |
5月15日、後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発する(承久の乱)。 5月22日、泰時が出陣(参考:北条泰時の出陣)。 6月14日、宇治川の戦いで朝廷軍を撃破して、翌15日に京都市中に入って鎮圧。 のちに北条政子は、承久の乱に勝利できたのは「半分以上は泰時の手柄によるもの」と語っている。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
高陽院は、後鳥羽上皇の院御所。 後鳥羽上皇は、ここに兵を集め、義時追討の院宣を発した。 |
城南宮は、平安京の南に鎮座する神社。 後鳥羽上皇は、城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募ったのだという。 |
瀬田の唐橋 |
宇治橋 |
瀬田橋と宇治橋は京都防衛の要衝地。 1184年(寿永3年)の源頼朝の木曽義仲追討の際には、源範頼が瀬田を、源義経が宇治を攻めて義仲を敗走させている。 承久の乱では、北条時房が瀬田を北条泰時が宇治を攻めて入京した。 |
瀬田の合戦〜宇都宮頼業の活躍〜 宇治川の戦い |
『吾妻鏡』によると・・・ 1192年(建久3年)5月26日、歩いて遊びに出かけていた金剛(泰時)。 すると多賀重行がその前を下馬もせず通り過ぎたのだという。 その話を聞いた頼朝は、重行を咎めるが、重行はそのような非礼に覚えがないと弁明。 金剛に聞いても、そのような事なかったと答えた。 しかし頼朝は、重行は嘘をつき、金剛は重行をかばっていると判断。 重行の所領を没収する一方で、慈悲深い金剛には刀を与えたのだとか。 泰時は、承久の乱で頼朝から賜った刀を帯びていたのだという。 |
後鳥羽上皇の近臣で「合戦の張本」とされた葉室光親・葉室宗行・源有雅・藤原範茂・一条信能は、それぞれの地で処刑された。 合戦張本の公卿 |
藍沢五卿神社には、処刑された五人が祀られている。 |
承久の乱後、幕府は朝廷の動きを監視するため、京都に六波羅探題を設置。 北条泰時と北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留。 六波羅は平清盛をはじめとする平家一門の邸宅があったところで、六波羅蜜寺の周辺。 |
六波羅蜜寺 |
平氏六波羅第・ 六波羅探題府跡碑 |
京都文化博物館特別展「よみがえる承久の乱」 |
1224年(貞応3年)6月13日 |
父義時急死。 |
1224年(貞応3年)6月28日 |
第三代執権に就任。 |
1224年(元仁元年)12月26日 |
関東諸国で疫病が流行し、鎌倉の四方の境で鬼気の祭(四角四境祭)を行う。 |
北条泰時の鬼気の祭 |
義時の死後、三代執権には泰時が就任するが、義時の後妻の伊賀の方は、兄伊賀光宗と謀反を企てたとして伊豆国に追放された(伊賀氏の変)。 ただ、この事件は、北条政子のでっちあげだともされ、泰時は謀反を否定している。 |
北條寺の義時と伊賀の方の墓は、泰時が建てたもの。 |
北条義時は毒殺されたのか? 北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村 |
北条泰時と北条時頼の邸跡から出土した木札(呪符)。 京都の祇園祭で授与される粽(ちまき)と同じように、北条氏も悪魔払いの「おまじない」をしていた・・・。 |
1225年(嘉禄元年)6月10日 |
源頼朝以来の幕臣大江広元が死去。 |
1225年(嘉禄元年)6月13日 |
北条義時の一周忌にあたって造営された釈迦堂の供養。 |
大円寺の本尊・清凉寺式釈迦如来は、釈迦堂にあった像と伝わる。 |
1225年(嘉禄元年)7月11日 |
北条政子が死去。 |
1225年(嘉禄元年) |
連署と評定衆を設置。 |
連署は、幕府の公文書に執権と連名で署名する者。 『吾妻鏡』によると、泰時が執権に就任した1224年(貞応3年)6月28日、北条政子は北条時房を後見役に任命している。 この記述から、連署は政子が設置したものと考えられてきたが、現在では政子の死後に泰時が設置し、時房を任命したとする説が定着している。 |
1225年(嘉禄元年)12月20日 |
幕府を宇津宮辻子に移転。 12月20日、四代将軍となる三寅(藤原(九条)頼経)が入る。 |
1225年(嘉禄元年)12月21日 |
宇津宮辻子の御所に評定衆11名を集め、執権・連署と合わせた13名での評定会議を開催。 |
北条泰時の集団指導制・合議政治〜連署と評定衆〜 |
1226年(嘉禄2年)1月27日 |
藤原(九条)頼経が四代将軍に。 |
1227年(嘉祿3年)6月18日 |
次男時実が家人に殺される(16歳)。 |
1227年(嘉祿3年)11月4日 |
大叔母?の阿波局が死去。 30日間の喪に服す。 |
1230年(寛喜2年)6月18日 |
長男時氏が死去(28歳)。 時氏は四代執権経時、五代執権時頼の父。 |
1230年(寛喜2年)8月4日 |
三浦泰村の妻となった娘が死去(25歳)。 前月15日に女子を出産していたが、その子は7月26日に亡くなっている。 |
1230年(寛喜2年)12月9日 |
四代将軍藤原(九条)頼経が源頼家の娘竹御所と結婚。 |
1230年(寛喜2年)〜1231年(寛喜3年) |
1230年(寛喜2年)、天候不順による大凶作が全国を襲い、翌年は大飢饉となり疫病が大流行した(寛喜の飢饉)。 1231年(寛喜3年)5月4日、四代将軍藤原(九条)頼経の父道家は、ある僧が祇園さま(八坂神社)のお告げを受けて書いたという札を鎌倉に送っている。 御所ではその夜に四角四境の鬼気祭が行われている。 1231年(寛喜3年)5月17日には、鶴岡八幡宮で天下泰平國土安隠の祈祷が行われている。 |
四角四境祭 北条泰時の鬼気の祭 |
1231年(寛喜3年)10月 |
承久の乱で荒廃した神泉苑と安嘉門院邦子(邦子内親王)の御所の修理を命ずる。 |
1232年(貞永元年) |
御成敗式目を制定。 |
1232年(貞永元年)8月9日 |
材木座に港・和賀江嶋が築かれる。 |
1221年(承久3年)の承久の乱後、六波羅探題の任に就いた泰時は、栂尾高山寺の明恵に帰依。 1232年(貞永元年)に制定された御成敗式目は、明恵の思想を強く受けていると言われる。 |
北条泰時と栂尾高山寺の明恵 |
1234年(天福2年)7月27日 |
竹御所が死去したことにより源頼朝の直系は断絶。 |
1235年(文暦2年) |
九条道家から承久の乱で流された後鳥羽上皇と順徳上皇の還都を提案されるが受け入れず。 |
1235年(文暦2年) |
四代将軍藤原(九条)頼経が五大堂(明王院)を建立。 |
1236年(嘉禎2年) |
幕府を若宮大路に移転。 |
1236年(嘉禎2年)10月5日 |
興福寺の衆徒が蜂起したため、臨時的に大和国に守護を置き、多数の地頭を送り込んで鎮圧。 この前年から、興福寺と石清水八幡宮は、境界問題で比叡山延暦寺も巻き込んだ争いを続けていた。 |
北条泰時と南都:興福寺の僧兵 |
1238年(嘉禎4年)7月11日 |
一切経五千余巻を園城寺の唐院灌頂堂に納める。 一切経は、前年の北条政子の十三回忌にあたり書写したもので、この日は政子の命日。 一切経の校合には、当時東国で布教活動をしていた浄土真宗の開祖親鸞もかかわっていたといわれる。 ただ、明王院建立時にも一切経が書写されており、こちらの校合にかかわった可能性の方が高いのだという。 |
園城寺 (大津市) |
真楽寺 (小田原市) |
園城寺(三井寺)は、政子と泰時が信仰した寺。 真楽寺は親鸞が逗留していたという寺。 |
泰時の子泰次は、常盤の坊舎に逗留していたという親鸞に拝謁して弟子となり「成仏」という名を授かったのだという。 成福寺は泰次が開いた鎌倉で唯一の浄土真宗の寺。 下総国の結城朝光や武蔵国の葛西清重も東国布教中の親鸞に帰依し、朝光は称名寺(結城市)を、清重は西光寺(東京葛飾区)を建立している。 |
称名寺 (結城市) |
西光寺 (葛飾区) |
1239年(延応元年)2月22日 |
隠岐で後鳥羽上皇が崩御。 遺骨は隠岐で火葬され、摂津国の水無瀬離宮に移された後、京都大原の勝林院に納骨された。 その後、法華堂が建てられ納骨されている。 |
1241年(仁治2年)4月29日 |
「囚人が逐電してしまうのは預かり人の罪」として、罰金を徴収して大仏殿建設に寄付することに。 この年の3月23日、大仏堂の事始めがあった。 |
1241年(仁治2年) |
朝夷奈切通と巨福呂坂を掘削。 |
朝夷奈切通 |
巨福呂坂 |
1242年(仁治3年)3月3日 |
僧徒の帯刀を禁じ、刀剣を没収して大仏造立のために奉げることを決定。 |
1242年(仁治3年)6月15日 |
泰時死去(60歳)。 |
泰時の父義時が亡くなったのが6月13日、北条政子が亡くなったのが7月11日、大江広元が亡くなったのが6月10日。 そして、泰時が亡くなったのが6月15日。 いずれの死も、承久の乱で朝廷軍が敗れ、後鳥羽上皇が配流された6月・7月に集中していたことから、後鳥羽上皇の怨霊による祟りではないかという噂が流れたのだとか・・・ 泰時が亡くなった年の9月12日には、佐渡に流されていた順徳上皇も崩御している。 |
成就院 |
常楽寺 |
成就院は、泰時が1219年(承久元年)に創建。 北条一族の繁栄を祈願したと伝えられている。 常楽寺は泰時の菩提寺。 1237年(嘉禎3年)、妻の母の供養のために建てた「粟船御堂」を前身としている。 |
願成就院は、1189年(文治5年)、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立。 北条三代(時政、義時、泰時)にわたって、次々に堂宇が建立され繁栄を極めた。 本尊阿弥陀如来坐像・不動明王と二童子像(矜羯羅童子・制咤迦童子)・毘沙門天像は、時政の発願により造立された運慶の真作。 |
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