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江間荘の在地領主であったことから「江間四郎」あるいは「江間小四郎」と呼ばれていた北条義時。 『吾妻鏡』に北条義時が登場するのは、1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵して相模国進軍を開始した8月20日。 この時の名は「北条四郎義時」。 翌年4月、義時は頼朝の寝所警護11名の一人に選ばれるが、この時の名は「江間四郎」。 この頃に江間の地を得たのかもしれない。 以後、『吾妻鏡』では、義時のことを「江間」「北条小四郎」「江間四郎」「江間殿」「江間小四郎」「江間四郎殿」「江間小四郎殿」などと呼ぶようになる。 |
伊豆国で流人生活を送っていた源頼朝は、伊東祐親の娘・八重姫と結ばれるが、平清盛を恐れた祐親は、二人の間に生まれた千鶴丸を殺害し、八重姫を江間小四郎(小次郎・次郎とも)に嫁がせたのだという。 江間は、狩野川を挟んだ北条の里の対岸にある地。 江間小四郎というと北条義時のことかと考えてしまうが・・・ 『吾妻鏡』によると、事件が起きたのは1175年(安元元年)9月のことで、1163年(長寛元年)に生まれたとされる義時が12、3歳の頃。 結婚するには年齢的に無理があるのかもしれない。 頼朝挙兵時の『吾妻鏡』の記述からしても、このころはまだ「江間」を名乗っていなかったようなので別人ということになるのだろう。 『豆州志稿』には、「頼朝は八重姫が嫁いだ江間次郎を殺害し、その子を義時に育てさせ、元服したのちには義時を烏帽子親として小次郎と名乗らせた」とある。 また、真名本『曾我物語』によると、江馬(江間)次郎は、頼朝が挙兵した後、伊東祐清(祐親の子)とともに加賀国で討死し、その子は義時が養育して「江馬小次郎」と名乗らせたのだという。 さらに、流布本『曾我物語』には、江馬小次郎の死後、その跡は北条時政が引継いだことが記されている。 いずれも語り伝えられてきた話にすぎないが、江間の地が北条氏の所領となる前に、江間小四郎(江間小次郎・江間次郎とも)という人物が支配していたのは確かな事なのかもしれない。 そして、江間に嫁いだ八重姫は子を産み、その子は義時が養育していたのかもしれない。 『吾妻鏡』では、頼朝の挙兵後間もなく義時のことを「江間四郎」と記していることから、江間氏は伊東氏とともに平家方についたため、その所領は北条氏のものとなったのではないだろうか・・・ |
※ | 江間の地は、江葉や江馬とも記されていた。 |
※ | 真名本『曾我物語』からすると、江馬次郎が討死したのは1183年(寿永2年)。 |
『真名本 曽我物語』によると・・・ 義時の父時政の先妻は、伊東祐親の娘で、北条政子の母なのだという(祐親の長女らしい。)。 ということは、義時の母も祐親の娘。 そして八重姫は義時の叔母という事になるが・・・ 頼朝の挙兵後、江間に嫁いだ八重姫の子を義時が育てたのが事実なのであれば、義時と八重姫の結婚があっても不思議な事ではないのかもしれない・・・ |
北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜 |
音無神社 (伊東市) |
日暮神社 (伊東市) |
産衣石 (伊東市) |
三島神社 (伊東市) |
伊東市富戸にある産衣石は、千鶴丸の伝説が残された石。 伊東祐親に殺された千鶴丸は、この場所に流れ着いて、甚之右衛門という漁師に葬られたのだと伝えられている。 産衣石の北に鎮座する三島神社には、千鶴丸が祀られている。 |
伊東市の最誓寺は、頼朝と別れた八重姫が再婚した江間小四郎と、千鶴丸の菩提を弔うために建てたのだという。 ここでいう江間小四郎とは、北条義時のことなのだとか・・・ 2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、八重姫は義時の初恋の人として描かれるらしい。 |
源頼朝が流された地は伊東という説 |
〜北條寺の墓塔には「江間小次郎平義時」の文字〜 |
北條寺は、北条義時創建と伝えられている寺院。 墓地には、北条泰時が建てたという義時と義時の後妻伊賀の方の墓があり、義時の墓には「北條相模守従四位下 江間小次郎平義時」と刻まれている。 いろんな伝説がある中で、江間小四郎と江間小次郎が混同されてしまったのかもしれない。 |
豆塚神社 (伊豆の国市) |
珍場神社 (伊豆の国市) |
豆塚神社は、北条義時が崇敬したという社。 珍場神社には、嫡子安千代丸の霊が祀られている。 |
北条義時の嫡子安千代丸と大蛇の伝説 (北條寺創建伝説) |
もしかすると、江間小四郎に嫁いだ八重姫の伝説は、義時の嫡子と言われる安千代丸の伝説とも関係があるものなのかもしれない。 |
北条時政邸跡 (北条郷) |
北条義時邸跡 (江間郷) |
北条義時は、北条郷を本拠とした豪族・北条時政の次男。 兄の宗時が石橋山の戦いで討死したことから、嫡子となったとされる一方で、分家の江間家の初代とも考えられている。 1189年(文治5年)、時政の後妻牧の方は男児(のちの政範)を産むが、時政は政範に家督を継がせる考えだったという説がある。 時政の真意は不明だが、北条本家以外にも源頼朝に仕える分家を作り、「時政の子義時」ではなく、「鎌倉御家人の義時」という形を作り上げたかったという考え方もできる。 もしかすると、頼朝の意向だったということもあるのかもしれない。 参考までに、頼朝亡き後にとられた十三人の合議制では、親子で名を連ねている。 |
北条の地にある願成就院は、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立。 北条三代(時政・義時・泰時)にわたって、次々に堂宇が建立され繁栄を極めた。 |
『吾妻鏡』では、義時の子で三代執権となる泰時を「江間太郎」と記している。 泰時の母は阿波局とされているが、阿波局は八重姫のことという説も。 |
小鹿を射止めた金剛(泰時)と矢口の祭り |
光時は、義時の子朝時の嫡子。 1246年(寛元4年)の宮騒動で江間郷に流され、江間光時と称した。 |
北条時政の嫡男は誰だったのか?〜石橋山の戦いで討死した北条宗時は?〜 |
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