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伊賀の方(いがのかた)は、藤原秀郷流の伊賀朝光の娘。 母は二階堂行政の娘。 二代執権北条義時の後妻(継室)。 義時の正室は、比企朝宗の娘姫の前だったが、1203年(建仁3年)の比企能員の変後に離婚。 伊賀の方はその後間もなく継室となったと考えられている。 1205年(元久2年)6月22日に政村、1208年(承元2年)に実泰を産んだ。 1224年(貞応3年)6月13日、義時が急死。 『吾妻鏡』によると・・・ 義時の死後、伊賀の方は兄弟の伊賀光宗と共謀して政村を執権にし、娘婿の一条実雅を将軍に据えようと企てたのだという(伊賀氏の変)。 閏7月3日、その謀反計画が発覚し、8月29日、伊豆国流罪となった。 同日、伊賀光宗は信濃国へ流された。 一条実雅は、10月10日に越前国へ流罪となっている。 政村と実泰は、三代執権となった北条泰時の計らいによって連座を逃れた。 |
〜伊賀氏の変は、北条政子のでっちあげ説〜 |
伊賀氏の変は、北条氏の代替わりによって自らの影響力の低下を恐れた北条政子が、義時の後妻の実家・伊賀氏を潰すためのでっちあげだったという説がある。 伊賀の方は、伊豆国へ追放された4ヵ月後の12月24日、鎌倉に危篤となったことが知らせれていることから、その後間もなく死去したものと考えられるが・・・ 兄の光宗は、政子死後の1225年(嘉禄元年)12月22日に許されて所領も回復され、1244年(寛元2年)には評定衆に就任している。 三代執権となった北条泰時は、伊賀の方の謀反を否定していたのだという。 |
北条義時の正室:姫の前 伊賀氏の変 北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村 北条政子の前に現れた伊賀の方の怨霊 承久の乱で討死した伊賀の方の弟伊賀光季 |
北條寺は、北条義時創建と伝えられる寺。 墓地には、北条泰時が義時と伊賀の方の菩提を弔うために建てたという墓が残されている。 |
伊賀の方の兄弟には、光宗の外にも京都守護を務めた光季がいたが、光季は1221年(承久3年)の承久の乱で朝廷軍に宿舎を攻められ自刃している。 伊賀光季の最期 |
伊賀氏の変の連座を免れた政村は、その後、若い北条時宗の代わりとして七代執権となる。 1268年(文永5年)、蒙古襲来の危機に時宗が八代執権に就任すると、政村は連署として嫡流の得宗家を支えた。 |
鎌倉の防衛の要衝である常盤には、北条政村の別邸があった。 |
政村とともに連座を免れた実泰は、武蔵国六浦荘を与えられ、金沢流北条氏の祖となった。 日本最古の武家文庫「金沢文庫」を創設した北条実時は、実泰の子。 1263年(弘長3年)9月26日死去(56歳)。 |
称名寺は金沢流北条氏の菩提寺。 |
伊賀氏の変から4年後、流刑先で変死を遂げたといわれている。 |
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