鎌倉手帳(寺社散策)

伊賀氏の変

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 1224年(貞応3年)、二代執権北条義時が亡くなると、北条政子は義時の嫡子泰時を執権とした。

 しかし、伊賀光宗と義時の後妻伊賀の方(光宗の妹)が、政村(義時の五男、母は伊賀の方)を執権にし、娘婿の一条実雅を将軍に据えようと企てた。

 光宗らは、政村の烏帽子親である三浦義村と語らい、将軍藤原(九条)頼経を廃し、泰時を討つ計画をたてたが、これを察知した北条政子は自ら義村邸に赴き、義村を諫めた。

 この謀叛で、伊賀の方は伊豆国へ追放、伊賀光宗は信濃国に流され、一条実雅は京に帰った後、越前国に流された。 


伊賀の方系図


 一条実雅は公卿で、三代将軍源実朝暗殺されたときに随従しており、姉の孫藤原(九条)頼経が四代将軍となったため、そのまま鎌倉に残って頼経を補佐していた。
 4年後、流刑先で変死を遂げたといわれている。

 北条政村への処罰はなく、政村は、のちに七代執権に就任し、八代執権の時宗のときには連署を務めている(参考:北条氏常盤亭跡)。



〜北条政子のでっちあげ説〜

 伊賀氏の変は、伊賀氏を潰すために北条政子がでっちあげたとする説がある。

 伊賀の方は、伊豆国へ追放された4ヵ月後の12月24日後、鎌倉に危篤となったことが知らせれていることから、その後間もなく死去したものと考えられるが・・・

 兄の光宗は、政子死後の1225年(嘉禄元年)12月22日に
許されて所領も回復されている。 





北条氏常盤亭跡
リンクボタン北条氏常盤亭跡
(北条政村別邸があった所)


北条義時夫妻の墓
リンクボタン北条義時夫妻の墓
(伊豆の国市・北條寺)

 北條寺の義時夫妻の墓は、北条政子の画策に乗らず、伊賀氏の謀叛を否定していたという北条泰時が建てたもの。

  リンクボタン北条義時は毒殺されたのか?


北条泰時の執権就任と伊賀氏の変(okadoのブログ)







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