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北条得宗家

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北条ミツウロコ


 「得宗」(とくそう)とは、北条氏の嫡流のことで「北条氏九代」をいう。

 「得宗」という名称は、二代執権北条義時の法号から取られたといわれている。

 ※「得宗」については諸説あるようです。



北条九代

北条時政

北条義時

北条泰時

北条時氏

北条経時

北条時頼

北条時宗

北条貞時

北条高時



 病気を理由に出家した五代執権北条時頼は、嫡男時宗が幼かったことから、北条一門の長時に執権を譲り、時宗の代理を務めさせ、実権は自らが握るとう方策をとった。

 時頼の時代から、執権政治から得宗の政治へと移行していく(得宗専制体制)。

 九代執権北条貞時も嫡男高時が元服するまでの間、師時、宗宣、煕時、基時を中継ぎの執権としている。

 元寇(文永・弘安の役)以降は、得宗家の御内人の影響力が強くなり、得宗邸での決定がそのまま政策となった。

 そのため北条泰時の設置した評定衆の意味も薄らいでいくことになる。

 北条貞時の時代には、内管領平頼綱の影響力が強くなった結果、霜月騒動によって有力御家人の安達泰盛が滅ぼされ、さらには頼綱自身も平禅門の乱で滅ぼされた。

 そして、北条高時の時代には、その実権が内管領の長崎円喜・高資父子などに握られていく。
 
 そして、鎌倉幕府はそのまま滅亡へと進んでいった(参考:嘉暦の騒動)。





〜深秘の御沙汰〜

 得宗の私邸内での秘密会議を「深秘の御沙汰」(しんぴのごさた)と呼んでいる。

 1246年(寛元4年)に北条経時北条時頼に執権職を譲る際に「深秘の御沙汰」が行われた。

 また、1266年(文永元年)の六代将軍宗尊親王の京への送還についても「深秘の御沙汰」が行われている。

 得宗家内での秘密会議は、のちに幕府の政策の決定機関として重要なものとなっていく。



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得宗専制政治を確立した北条時頼(okadoのブログ)

安達泰盛と平頼綱の対立〜霜月騒動〜(okadoのブログ)








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