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1333年(元弘3年)5月、新田義貞の鎌倉攻めによって北条高時をはじめとする北条一族が自刃。 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇の「建武の新政」が開始されるが・・・ 武家には指示されなかった。 そんな中、武家よりの公家・西園寺公宗が後醍醐天皇を暗殺しようとしたが失敗。 公宗が匿われていた北条泰家(高時の弟)は、逃れて全国の北条残党に挙兵を呼びかけた。 そして・・・ 1335年(建武2年)7月、高時の遺児・時行が挙兵。 時行は、幕府滅亡後、信濃に逃れていたが、諏訪頼重に担がれて幕府再興を目指す・・・ |
当時の鎌倉は、足利義詮(尊氏の嫡子)が治め、足利直義(尊氏の弟)が成良親王を奉じて下向していた。 しかし、時行軍は、次々に足利軍を撃破。 7月23日、直義と成良親王・義詮は、鎌倉を逃れて敗走。 このときに直義は淵辺義博に命じて東光寺(現鎌倉宮)に幽閉していた護良親王を殺させている。 そして、7月25日、時行が鎌倉に入った。 |
※ | 北条時行の反乱は、鎌倉時代の北条氏を先代と呼び、次の代となる時行を中先代と呼んだことから、「中先代の乱」と呼ばれている。 |
※ | 北条時行軍は、鎌倉に攻め入った際に暴風雨に襲われた。 この時、大仏殿(鎌倉大仏)の棟梁が折れ、中に避難していた兵士500人が圧死したと伝えられている。 |
護良親王が幽閉されていたとされる牢跡。 1334年(建武元年)、護良親王は、後醍醐天皇や足利尊氏と対立し、尊氏に預けられ鎌倉に幽閉されていた(参考:鎌倉宮)。 |
北条時行の反乱の知らせを聞いた足利尊氏は、時行討伐のため、後醍醐天皇に征夷大将軍の職を求めたが、天皇はこれを拒否した。 そのため、尊氏は勅許を得ないまま鎌倉へと出陣することになる(のちに征東将軍の職が与えられた。)。 三河で直義と合流した尊氏は、そのまま時行軍を撃破し、8月19日、鎌倉を奪還。 時行は逃れたが、諏訪頼重らは、勝長寿院で自刃したと伝えられている。 |
中先代の乱と足利尊氏と清水寺に奉納した願文 |
鎌倉に入った足利尊氏は、後醍醐天皇の帰京命令を無視し、建武の新政から離反する意志を固めた。 尊氏の離反によって、後醍醐天皇は新田義貞を尊氏討伐に向かわせることとなる。 1335年(建武2年)12月8日、尊氏は鎌倉を発ち、新田軍を破り京に入った(北畠顕家らの攻撃によって一時九州に逃れるものの、再び京を奪還した。)。 1336年(建武3年)、「建武式目」を定めることによって室町幕府の成立をみる(建武の新政の崩壊)。 そして、1338年(延元3年)には征夷大将軍に任じられている。 |
足利尊氏が後醍醐天皇を裏切る覚悟をしたという浄光明寺 |
鎌倉を逃れた時行は、のちに南朝(大覚寺統)に味方して各地で戦うことになる。 1337年(建武4年)には北畠顕家の鎌倉攻めに合流して二度目の鎌倉奪還に成功(杉本城の戦い)。 1352年(正平7年)には鎌倉公方の足利基氏を破って三度目の鎌倉奪還を成功させている(観応の擾乱)。 しかし、いずれも短期間に終わり、1353年(正平8年)5月20日、捕らえられて、龍ノ口の刑場で最期を迎えた。 |
建武の新政の崩壊後、幽閉されていた花山院を脱出した後醍醐天皇は、密に吉野へ行幸。 自ら主宰する朝廷を開いたことにより、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まった。 |
吉野に南朝を興した後醍醐天皇と北条時行 |
劣勢を覆したい後醍醐天皇だったが、望みは叶わず、1339年(延元4年 / 暦応2年)8月16日、還御することなく崩御(宝算52)。 陵墓は塔尾陵(吉野山:如意輪寺)。 |
1352年(文和元年・正平7年)、観応の擾乱後、新田義貞の遺児義宗と義興が挙兵すると、時行も挙兵。 しかし、足利尊氏・基氏父子によって捕らえられ、翌年、龍ノ口で処刑された。 時行の死によって北条得宗家は完全に滅亡した。 龍ノ口刑場跡は、鎌倉時代から室町時代の刑場で、龍口寺内に石碑が建てられている。 |
北条得宗家の滅亡〜最後の得宗北条時行〜(okadoのブログ) |
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