奈良・京都

紫式部 紫式部年表



吉 野 山

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吉野山


 吉野・・・

 天智天皇の後継を辞退した大海人皇子が下った地。

 藤原道長が金峯山詣を行い自ら書写した経を埋納した地。

 源頼朝に追われた源義経が身を隠し、愛妾の静御前と別れた地。

 鎌倉幕府討幕運動(元弘の変)で、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時拠点とした地。

 後醍醐天皇が南朝を興した地。



金峯山寺
リンクボタン金峯山寺


 役行者(役小角)が、山上ヶ岳と吉野山に蔵王権現を祀ったことに始まる寺。

 金峯山詣を行った藤原道長は、自ら書写した法華経などを金峯山(山上の蔵王堂)に埋納。

 紫式部の夫・藤原宣孝は、金峯山詣の御利益があって筑前守に任官されたのだとか・・・

 中世には多くの僧兵を抱え、吉野山で源義経と別れた静御前は、金峯山寺(蔵王堂)の僧兵に捕まり、鎌倉へ送られている。



リンクボタン『枕草子』:藤原宣孝の逸話〜清少納言と紫式部〜


藤原道長の御嶽詣〜彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?〜

国宝に指定された藤原道長直筆の経巻〜吉野山:金峯神社・金峯山寺〜

金銅藤原道長経筒〜御嶽詣と弥勒信仰と道長の願文〜





〜源義経と静御前の伝説〜

吉水神社
リンクボタン吉水神社
勝手神社
リンクボタン勝手神社


 吉水神社源義経一行が隠れ住んでいたという所。

 勝手神社の社殿前では静御前が舞ったのだとか。




覚範首塚
リンクボタン覚範首塚
佐藤忠信花矢倉
リンクボタン佐藤忠信花矢倉


 義経の郎党佐藤忠信は、義経一行を落ち延びさせるため囮となって戦った。




吉野水分神社
リンクボタン吉野水分神社
金峯神社
リンクボタン金峯神社


 金峯山寺の僧兵から逃れる義経の伝説が残されている。





〜後醍醐天皇・護良親王・村上義光〜

村上義光の墓
リンクボタン村上義光の墓
大塔宮仰徳碑
リンクボタン大塔宮仰徳碑


 吉野は討幕の挙兵をした護良親王が本拠とした地。

 村上義光は、吉野城の戦いで護良親王の身代わりとなって自害した。


リンクボタン護良親王の身代わりとなって自刃した村上義光




後醍醐天皇陵
リンクボタン後醍醐天皇陵
後醍醐天皇御幸の芝
リンクボタン御幸の芝


 足利尊氏と対立して吉野に南朝を興した後醍醐天皇は京都へ帰ることなく吉野で崩御。



如意輪寺
リンクボタン如意輪寺

 如意輪寺は、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とした寺。










鎌倉で義経を慕う舞・・・

静の舞
リンクボタン静の舞


 吉野山 峰の白雪 ふみわけて
 入りにし人の 跡ぞ恋しき


 しづやしづ しづのをだまき くり返し
 昔を今に なすよしもがな


 吉野山で捕えられ、鎌倉へ送られた静御前は、鶴岡八幡宮で義経を慕う今様を唄いながら舞った。



静の舞





=大仏建立の伝説=
吉野の金峯山寺と大津の石山寺



 東大寺を開いた良弁は、聖武天皇の命により吉野金峯山寺で大仏に施す金の産出祈願を行った。

 すると、蔵王権現が琵琶湖の観音菩薩が出現する地に行って祈るように告げられる。



金峯山寺
リンクボタン金峯山寺
石山寺
リンクボタン石山寺



 お告げのとおりに石山の地を訪れた良弁は、巨大な岩の上に聖武天皇から預かった聖徳太子の念持仏(如意輪観音)を祀って祈願すると・・・

 程なく、陸奥国で黄金が産出されて祈願達成した。

 しかし、観音像を移動させようとしても岩の上から離れない。

 そのため、観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の始まりなのだという。



石山寺本堂
リンクボタン石山寺本堂
石山寺珪灰石
リンクボタン珪灰石


 石山寺本堂は、国の天然記念物・珪灰石の岩盤上に建てられている。



東大寺と大山寺を開いた良弁の伝説





〜吉野山で彫られた不動明王〜


 伝説によると・・・

 石山寺の座主だったという藤原宗円は、前九年の役で源頼義が苦戦していると、奥州まで不動明王像を携えて戦勝を祈願し、戦を勝利に導いたのだと伝えられている。

 その不動明王像は、源頼光の願いにより、円覚(多田満仲の子)が吉野山中に籠って一刀三礼のもとに彫り上げたと伝えられるもの。

 石山寺に安置された後、下野国に移され、現在は多気山不動尊の本尊なのだという。



石山寺
リンクボタン石山寺
(大津市)
多気山不動尊
リンクボタン多気山不動尊
(宇都宮市)





〜壬申の乱〜


 天智天皇の後継を大友皇子(天智天皇の子)に譲り、吉野に下っていた大海人皇子(天智天皇の弟)は、672年(天武天皇元年)に挙兵(壬申の乱)。

 大海人皇子は関ヶ原で大友皇子を破って、翌年、飛鳥浄御原に遷都して即位した(天武天皇)。

 近江の園城寺(大津市)は、壬申の乱で敗れた大友皇子の子・大友与多王が、天武天皇の許可を得て創建したのだという。

 大海人皇子が隠棲していた吉野宮は、吉野川の右岸にあったらしい(宮滝遺跡)。




大海人皇子野上行宮跡
リンクボタン大海人皇子野上行宮跡
(岐阜県関ヶ原町)

 壬申の乱の際に大海人皇子が本営としたのは関ヶ原の野上宿。

 戦国時代の関ヶ原の戦い徳川家康が陣を敷いた桃配山の名は、大海人皇子が村人から献上された桃を兵たちに配ったことによるのだとか。




〜五節の舞〜

 新嘗祭や大嘗祭の豊明節会で演じる五節の舞は、天武天皇が吉野に行幸した際、雲に乗って天女が降りてきたという伝承に基づくものとされる。


リンクボタン五節の舞姫〜新嘗祭・大嘗祭で舞った舞姫と貴族〜





〜鎌倉武将と御嶽信仰〜

 「御嶽」(みたけ)は、吉野の金峯山のこと。

 武蔵国多摩郡(東京都青梅市)の武蔵御嶽神社は行基によって蔵王権現が勧請され、中世以降、山岳信仰の中心として発展して有力武将から武具などが奉納された。

 畠山重忠奉納と伝えられる「赤糸縅大鎧」は国宝に指定されている。

 摂社の産安社源頼朝の創建とも。



武蔵御嶽神社
リンクボタン武蔵御嶽神社
(青梅市)
武蔵御嶽神社摂社産安社
リンクボタン産安社
(青梅市)









源義経

静の舞

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歴史めぐり源頼朝




吉野山桜ポスト

 吉野山は桜の名所。
 桜ポストは、2020年(令和2年)3月に吉野町観光案内所が吉野駅前に移転したのを機に新設された。
 ポストの横には「これはこれはとばかり花の吉野山」の句。



吉野山
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