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清少納言は『枕草子』に、紫式部の夫・藤原宣孝が御嶽精進(御嶽詣・金峯山詣)を行った時の様子を以下のように書き記している。 |
御嶽精進は、どんな高貴な身分であっても質素な身なりで参詣するものと聞いていたが・・・ 右衞門佐宣孝という人は、 「つまらないことだ。 清き衣を着て参詣しても、大した御利益もない。 権現さまも『必ず質素な身なりで参詣せよ』とはおっしゃらないだろう」 と言って、3月末日に、濃い紫の袴に白い狩衣、そして、山吹のとても派手な衣で・・・ 息子の隆光には、青色の狩衣、紅の衣、それに乱れ模様をすりだした袴を着せて参詣。 吉野から帰る人々は 「このお山で、このような姿の人を見たことがない」 と驚き嘆いたのだが・・・ 4月1日に帰京し、6月10日頃に、筑前守の辞任で、その代わりに任官されたことで、 「彼の言ったとおりになった」 と評判になった・・・ |
金峯山寺 |
金峯神社 |
御嶽詣(金峯山詣)は、吉野の金峯山に参拝すること。 1007年(寛弘4年)8月11日、藤原道長は金峯山(山上の蔵王堂)に自らが書写した経を埋納している。 翌年、娘で一条天皇の中宮彰子が懐妊すると「金峯山の御霊験」と噂されたのだという。 金峯神社に伝わる経筒は、金峯山から出土したもので国宝。 |
紫式部は『紫式部日記』に清少納言のことを以下のように書き記している。 「清少納言は、ひどく得意そうな顔をしていた人です。 あんなに賢そうにして漢字を書き散らしておりますが、よく見れば、まだその道に通じていないことが多いのです」 これは、清少納言が夫のことを批判するような事を書いたため、激怒して書いたのだといわれる・・・ |
蘆山寺は紫式部の邸宅跡とされている。 藤原宣孝と結婚した紫式部は、ここに住んで、一人娘の賢子(大弐三位)を育て、『源氏物語』を執筆したのだという。 |
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