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藤原宣孝(ふじわらののぶたか)は、紫式部の夫。 父は権中納言・藤原為輔。 筑前守、山城守などを歴任し、998年(長徳4年)頃に紫式部と結婚。 しかし、1001年(長保3年)4月25日、疫病のために卒去。 2月5日に春日祭使(春日大社に神馬を奉納する使者)を辞退しているので重病だった可能性がある。 紫式部との娘・藤原賢子(大弐三位)は、後冷泉天皇の乳母を務めている。 後冷泉天皇は、紫式部が仕えた藤原彰子の孫。 |
藤原定方 右大臣 |
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紫式部の父為時と、宣孝の父為輔は従兄弟。 紫式部と宣孝は、はとこ(またいとこ)。 |
源信明 | 藤原為輔 | |||||
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明子 | = | 説孝 | 宣孝 | = | 紫式部 |
源信明の娘で紫式部の義姉にあたる明子は、『源氏物語』に登場する源典侍のモデルともいわれる。 藤原道長室の源明子とは別人。 |
石清水八幡宮に伝わる「大宰府符」は、筑前守となり大宰少弐も兼ねた宣孝の自筆署名があるもの。 |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部歌碑 (紫式部公園) |
「春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな」 宣孝と結婚する前、父の藤原為時に同行して越前国武生へ下向していた紫式部が詠んだ歌。 「春になりましたが、白山の雪はますます積もって解けるのはいつのことかわかりません」 (春になっても私のあなたに対する気持ちは解けません・・・) 宣孝は「年が明けたら唐人を見にそちらへ参ります」 と言っていたらしい・・・ 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された紫式部公園に歌碑が建てられている。 |
宣孝は、幾度となく紫式部に求婚の手紙を書いていたらしいが、その度に拒否の歌を返している。 宣孝は紫式部より20歳ほども上で、何人もの女性と結婚していて、紫式部と同年代の息子もいた。 紫式部が父・藤原為時の越前下向に同行したのは、父親ほどの年齢差のあった宣孝からの求婚があったことも理由の一つといわれる。 |
紫式部の歌~藤原宣孝の求婚を拒否する歌~ |
紫式部が越前武生に下向した当時、敦賀の松原客館には北宋の商人・朱仁聡が林庭幹・羌世昌(周世昌)らとともに滞在していた。 紫式部の父・藤原為時は、その交渉相手として越前国司に選ばれたともいわれる。 |
気比の松原 (敦賀市) |
気比神宮 (敦賀市) |
松原客館は気比の松原付近にあったともいわれるが、気比神宮の神官が管理していたともいわれることから、気比神宮近くにあったという説もある。 |
宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
紫式部が越前国から帰京したのは、997年(長徳3年)秋から翌年の春にかけてと言われている。 998年(長徳4年)の夏には、紫式部と直に話をするようになり、お互いの気持ちも理解できるようになったらしい。 |
紫式部の歌~藤原宣孝と結婚する紫式部が詠んだ歌~ |
紫式部との結婚は、宣孝が紫式部邸を訪れて数日間を暮らす「通い婚」。 はじめは、花の歌を贈答するなど夫婦円満だったが、当時の貴族の例にもれず、宣孝は他の女のもとへ通うようになる。 『紫式部集』には、その頃の歌が多く収められている。 |
通い婚・妻問婚と藤原道長と紫式部 紫式部の歌~藤原宣孝に飽きられた紫式部の悲しみの歌~ 紫式部の歌~藤原宣孝が来ない邸宅で嘆く紫式部~ 紫式部の歌~夫婦仲に秋風が立ち、天の川の逢瀬を羨む~ 紫式部の歌~浮気する藤原宣孝への反発の歌~ |
結婚後か結婚前かは諸説あるが、宣孝が紫式部の文(手紙)を他の女(他の妻)に見せるという事件が起こる。 このとき、紫式部は文を返すよう宣孝に要求し、宣孝は全部返すと言っている。 当時、もらった文を返すという行為は「絶縁」を意味するものであったらしい・・・ |
紫式部の歌~紫式部と藤原宣孝の夫婦喧嘩?文散らし事件!~ |
1001年(長保3年)4月25日、宣孝が死去。 同年閏12月22日、藤原道長の姉で一条天皇の生母・藤原詮子が崩御。 翌年、薄鈍色の喪服を着ていた紫式部のところへ宮中からの使いがやってきて、死を悲しむ和歌が贈られている。 |
紫式部の歌~藤原詮子と藤原宣孝の死を悲しむ歌~ 紫式部の歌~藤原宣孝の筆跡を見つけた娘との贈答歌~ 紫式部の歌~藤原宣孝亡き後に患ったときの歌~ |
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」 この歌は、紫式部が宣孝の死を悼んで詠んだもの。 荼毘に付されて煙となって消えてしまった夕べから、陸奥国の塩釜の浦でたなびくという塩焼きの煙までもが懐かしいと思えてしまう・・・ |
紫式部の歌~見し人の:夫・藤原宣孝の死を悼む歌~ |
源融 河原院址 |
渉成園 |
『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる源融は、邸宅の河原院に、陸奥国の塩釜の風景を模した庭園を造営し、尼崎から海水を運んで塩焼き(製塩)を楽しんだのだという。 東本願寺の飛地境内地で河原院の一部に造営された渉成園には、「塩釜の井筒」や「塩釜の手水鉢」などが残されている。 |
渉成園にある塩釜と塩釜の手水鉢。 |
宣孝と死別した後、その寂しさから宣孝が大切にしていた漢書類を引き出して見ていた紫式部。 すると女房たちに 「そんな事をしていらっしゃるから、ご運に恵まれないのです」 と言われてしまったのだとか。 |
風の涼しい夕暮れ、琴を弾いて憂いをまぎらす(越前市・紫きぶ七橋) 紫式部の歌~露しげき・・・~ |
藤原高藤 |
定方 |
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勧修寺は、醍醐天皇が母藤原胤子の菩提を弔うために建てた寺。 胤子の父・藤原高藤と母・宮道列子は紫式部の先祖。 『源氏物語』に登場する光源氏と明石の君の恋の話は、身分の低い列子と貴公子・高藤の恋の話がモデルであるとされる。 |
紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説 |
990年(正暦元年)3月、御嶽詣を行った宣孝は、その御利益があって筑前守に任官されたのだとか・・・ 清少納言の『枕草子』には、その時の様子が書かれている。 |
『枕草子』:藤原宣孝の逸話~清少納言と紫式部~ |
蘆山寺は紫式部の邸宅跡とされている。 藤原宣孝と結婚した紫式部は、ここに住んで、一人娘の賢子(大弐三位)を育て、『源氏物語』を執筆したのだという。 |
紫式部が結婚する前、方違えのため藤原為時の邸宅に訪れて泊まっていった男がいる。 『紫式部集』には、その男との贈答歌が収められているが、のちに夫となる宣孝とする説がある。 |
紫式部の歌~方違えで泊まっていった男は藤原宣孝?~ 方違え~方位神のいる方角を避ける陰陽道の信仰~ |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部像 (紫式部公園) |
996年(長徳2年)、紫式部は越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向するが、翌年か翌々年には帰京し、宣孝と結婚。 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された紫式部公園には、金色の紫式部像が置かれ、宣孝との贈答歌 「春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな」 の歌碑が建てられている。 |
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