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勧 修 寺

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勧修寺


 勧修寺(かじゅうじ)は、900年(昌泰3年)、醍醐天皇が母・藤原胤子の菩提を弔うため、胤子の同母兄弟である藤原定方に命じて創建。

 胤子の祖父・宮道弥益(みやじいやます)の邸宅の跡地に建てられた。

 寺名は、胤子の父藤原高藤の諡号からのもの。

 開山は、東大寺で学んだ承俊。

 本尊は、千手観音。

 官寺に次ぐ定額寺に列せられて栄え、南北朝時代には後伏見天皇の第七皇子・寛胤法親王が長吏(長官)となってからは門跡寺院となる。

 応仁の乱の兵火で焼失するが、江戸時代に徳川家や朝廷の援助で復興した。


 宮道弥益の娘の列子が藤原高藤に嫁ぎ、生まれた胤子が宇多天皇の女御となって醍醐天皇を産んだ。





勧修寺本堂
本堂

 1672年(寛文12年)、霊元天皇の仮内侍所を下賜された(京都市指定文化財)。



勧修寺宸殿
宸殿

  1697年(元禄10年)、明正天皇の旧殿を下賜された(京都市指定文化財)。

 宸殿は門跡寺院特有の建物で、境内の中で最も格式高い建物。



勧修寺書院
書院

  宸殿と同じく、1697年(元禄10年)、明正天皇の旧殿を下賜された(重要文化財)。



勧修寺観音堂
観音堂

  1931年(昭和6年)の再建。



勧修寺氷室池
氷室池

 宮道弥益の邸宅だった頃からあったという池。

 平安時代には、1月2日に氷室池に張った氷を宮中に献上して、その厚さによって五穀豊穣を占ったといわれている。









〜藤原北家勧修寺流〜

 藤原高藤の流れを汲む家系は、高藤の次男定方が勧修寺を建立したことから勧修寺流と呼ばれる。


藤原冬嗣

良門

高藤

定方

朝忠

穆子
 ↓
朝頼

為輔

宣孝
  ↓

為時

紫式部



〜紫式部の先祖〜

 藤原高藤と宮道弥益の娘・列子は『源氏物語』を著した紫式部の先祖。

 左大臣源雅信の正妻藤原穆子、紫式部の夫藤原宣孝の先祖。

 『源氏物語』に登場する光源氏明石の君の恋の話は、身分の低い列子と貴公子・高藤の恋の話がモデルであるとされる。



宮道列子の墓
リンクボタン宮道列子の墓

 宮道列子の墓は、勧修寺の北に建てられている。

 その北には、醍醐天皇の勅命で建てられたという花山稲荷神社がある。

 藤原高藤の墓は、勧修寺下ノ茶屋町の鍋岡山にあるらしい。



藤原高藤と宮道列子の恋の話


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宇治十帖〜紫式部『源氏物語』〜


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〜勧修寺晴豊〜

 戦国時代の1582年(天正10年)5月4日、勧修寺晴豊は織田信長の安土城に勅使として訪問。

 信長に官職を勧めるための勅使だった。

 晴豊の日記によると、信長の官職は、征夷大将軍・太政大臣・関白の三択だったのだという。

 そのため、この三択は「三職推任」と呼ばれ、6月2日に起こる本能寺の変との関係が議論されているらしい。



リンクボタン三職推任と織田信長〜将軍・大臣・関白・本能寺の変〜


本能寺の変










勧修寺
勧修寺

京都市山科区勧修寺仁王堂町27−6


地下鉄東西線「小野駅」から徒歩6分。



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