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藤原為時(ふじわらのためとき)は、紫式部の父。 父は藤原雅正。 母は藤原定方の娘。 漢詩人だった為時は、984年(永観2年)、学問を教えていた師貞親王(花山天皇)が即位すると式部丞・六位蔵人に任じられる。 しかし、986年(寛和2年)の寛和の変で花山天皇が仏門に入ったことで出世が途絶えることとなる。 一条天皇の時代には、官職のない状況が続いたが、996年(長徳2年)、越前守に叙任されて越前国へ下向。 紫式部も同行したのだという。 1011年(寛弘8年)には越後守となるが、越後国では息子の惟規(のぶのり)を亡くしている。 1014年(長和3年)、越後守を辞任して帰京。 帰京の理由は、娘の紫式部が亡くなったからという説がある。 1016年(長和5年)、三井寺で出家。 1018年(寛仁2年)以降に亡くなったと考えられている。 |
※ | 紫式部の「式部」は、花山天皇の時代の為時の官職・式部丞に由来しているらしい。 |
※ | 紫式部の母・藤原為信女は、紫式部が幼い頃に亡くなっているらしい。 |
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紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された紫式部公園には、金色の紫式部像が置かれている。 |
松原客館(まつばらきゃっかん)は、平安時代前期に渤海の使節団(渤海使)を迎えるための迎賓・宿泊施設。 越前国の敦賀に設けられていたと考えられている。 928年(延長6年)の渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたとういう説がある。 為時が越前国に赴任する前年の995年(長徳元年)、若狭国に宋の商人の朱仁聡・林庭幹ら70余人が来航。 藤原道長が事件を一条天皇に奏上し、朱仁聡らを越前国に移すことが決定されるが、かなりの長期にわたって越前国に滞在することとなる。 漢文の才を持つ為時は、その交渉相手として国司に選ばれたとのだといわれる。 |
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鴻臚館は、能登国の能登客院や越前国の松原客館に滞在していた渤海使を招いていた施設。 『源氏物語』~桐壺巻~には・・・ 桐壺帝が幼い光源氏を鴻臚館に滞在していた高麗人に人相占いさせている様子が書かれている。 |
藤原高藤 |
定方 |
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勧修寺は、醍醐天皇が母藤原胤子の菩提を弔うために建てた寺。 胤子の父・藤原高藤と母・宮道列子は紫式部の先祖。 左大臣源雅信の正妻藤原穆子、紫式部の夫藤原宣孝の先祖。 『源氏物語』に登場する光源氏と明石の君の恋の話は、身分の低い列子と貴公子・高藤の恋の話がモデルであるとされる。 |
為時の出家の理由は、相次いで二人の子を亡くしたため、三井寺の阿闍梨だった息子の定暹のもとで暮らしたかったという説が・・・ |
蘆山寺は紫式部の邸宅跡とされている。 紫式部は、ここで父為時に育てられ、藤原宣孝と結結した後もここに住んで、一人娘の賢子(大弐三位)を育て、『源氏物語』を執筆したのだという。 |
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