紫式部「光る君へ」


一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時


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 996年(長徳2年)正月28日、越前守に叙任されて越前国へ下向した藤原為時

 越前には娘の紫式部も同行していたのだという。


 ただ、正月25日の除目で越前守に任ぜられたのは源国盛で、為時は淡路守だったらしい。

 しかし、藤原道長は国盛を停めて、為時を越前守に任じたのだという。

 小国の淡路国から大国の越前国の守に変更になったのは何故か?



~一条天皇に奏上した漢詩~

 藤原為時は、どのようにして大国の守を得ることができたのか?

 『古事談』によると、

 越前国守への任官は、源国盛と藤原為時が望んでいたが・・・

 正月25日、国盛の任官が決まると、為時は女房を通じてに一条天皇に申文を奏上。

 申文には

 「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」

 の漢詩が書き添えられていたのだという。

 「懸命に勉強したのに希望が叶わず、

 血の涙が襟をぬらしております。

 もし、除目の変更があれば、

 蒼天(一条天皇)に更なる忠勤を誓うでしょう」

 これを見た一条天皇は、食事も喉を通らず、床に入って泣いたのだとか。

 それを聞いた藤原道長は、国盛に越前守を辞退させ、為時を越前守とする除目を行ったのだという。

 『今昔物語』には、一条天皇は為時の漢詩の才に深く感動したのだと書かれている。



~源国盛~

 源国盛は、道長の乳母の子だったのだという。

 国盛は、この除目が原因で病気となり、秋には播磨守に任官されたが、赴任しないまま亡くなった。





紫式部公園
リンクボタン紫式部公園
(越前市)
紫式部像
リンクボタン紫式部像
(紫式部公園)


 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された紫式部公園には、金色の紫式部像が置かれている。




越前下向:紫式部が通った道





~松原客館と為時~

 平安時代前期、越前国には渤海の使節団(渤海使)を迎えるための施設・松原客館があった。

 渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたといわれ、漢文の才を持つ為時は、その交渉相手として国司に選ばれたともいわれている。



気比の松原
リンクボタン気比の松原

(敦賀市)
気比神宮
リンクボタン気比神宮

(敦賀市)


 松原客館があった正確な場所は不明だが、気比の松原付近にあったのではないかといわれている。

 また、気比神宮が管理していたことから気比神宮付近にあったという説もある。



リンクボタン宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時










紫式部


紫式部と越前国


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