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996年(長徳2年)、紫式部は越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向。 その地は、越前国府があった武生(たけふ)。 『源氏物語』の(浮舟の巻)や(手習の巻)に「たけふ」の地名が登場する。 越前国下向の理由は、「幼い頃に母と姉を亡くしたことから、父の世話をするため」といわれている。 翌年には帰京(帰京の時期には諸説ある)。 藤原宣孝と結婚するためといわれている。 |
藤原為時と紫式部は、逢坂の関を越えて大津に入り、琵琶湖を渡って、塩津山を越え、敦賀を経て越前国府に至ったと考えられている。 下向の時期は不明だが、下向の途中で詠んだという 「かき曇り夕だつ浪のあらければうきたる舟ぞしづ心なき」 からすると夏だったのかもしれない。 紫ゆかりの館には、下向を再現した越前和紙で作られた模型が置かれている。 |
紫式部は、打出浜から船出して琵琶湖を渡ったのだという。 |
996年(長徳2年)正月25日、藤原為時は淡路守に任ぜられ、越前守に任ぜられたのは源国盛だった。 しかし、藤原道長は国盛を停めて、為時を越前守に任じたのだという。 小国の淡路国から大国の越前国の守に変更になったのは何故か? それは、為時が一条天皇に奏上した漢詩に理由があるらしい・・・ |
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紫式部公園は 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された。 十二単衣をまとった金色の紫式部像が立てられ、平安朝式庭園が再現されている。 |
「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」 日野山に積もった雪を眺めながら、都にある小塩山の松を思い出して詠んだ歌。 |
「春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな」 のちに結婚する藤原宣孝との贈答歌。 |
「身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる」 夫の藤原宣孝と死別したのち、藤原道長の娘で一条天皇の中宮となった藤原彰子に仕えるようになったときに詠んだ歌。 |
筑紫の君は、姉を亡くした紫式部が「姉君」と呼んでいた女性。 紫式部がいる越前国に筑紫の君から手紙が届き、その返事に紫式部は、 「あひ見むと思ふ心は松浦なる鏡の神や空に見るらむ」 と贈り、筑紫の君は、 「行きめぐり逢ふを松浦の鏡には誰れをかけつつ祈るとか知る」 と返してきたのだという。 |
越前国は、古代から北陸地方の政治・経済・文化・交通の中心地として栄えた国。 赴任した国司の多くが帰京後に政治の中枢で活躍していることから重要な国だった。 参考までに、紫式部と同じ頃に藤原彰子に仕えた和泉式部の父大江雅致も越前守だった。 |
国府は、奈良時代に建設された地方政治の拠点。 越前国府は、紫式部の『源氏物語』にも「武生の国府」とあることから、武生にあったことは確かなようだが、具体的な場所はわかっていない。 |
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国府には、中央から派遣された国司が政務を執る国庁が置かれたほか、国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置されていた。 |
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御霊神社も国府と関係のある社。 本興寺には、紫式部ゆかりの紅梅があって、境内は国府跡という説が・・・ |
『源氏物語』の宇治十帖・浮舟の巻には、 「武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを・・・」 とある。 宇治から帰京する浮舟の母が、 「たとえあなたが、遠い武生の国府のような所へ行ってしまったとしても、こっそりとお伺いしましょう・・・」 と浮舟を慰めている場面。 手習の巻では、 浮舟を救った比叡山の横川の僧都の母・大尼君が 「たけふ、ちちりちちり、たりたむな」 と口ずさんでいる。 |
越前市東千福町20 武生駅から白山行き福鉄バス 「紫式部公園口」下車 市民バス市街地循環南ルート 「紫式部公園」下車 |
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