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廬山寺(ろざんじ)は、938年(天慶元年)、比叡山十八世貫主の元三大師良源が船岡山の南麓に創建した天台圓淨宗の本山。 天正年間(1573ー1593)、豊臣秀吉の寺地替えにより現在地に移転。 度々の火事で焼失し、現在の仏殿(本堂)は、1794年(寛政6年)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築したもの。 明治維新までは宮中の仏事を司る御黒戸四箇院の一つだった。 本尊は阿弥陀三尊(重文)。 |
廬山寺の境内は、『源氏物語』の作者・紫式部の邸宅跡。 1965年(昭和40年)、考古・歴史学者の角田文衞により考証され、紫式部邸宅跡を記念する顕彰碑が建てられた。 |
廬山寺の本堂の拝観口には紫式部像。 |
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蘆山寺門前の寺町通の反対側にある梨木神社は、『源氏物語』に登場する花散里(はなちるさと)が住んでいた麗景殿女御邸や空蝉(うつせみ)が住んでいた中川家の跡ともいわれている。 寺町通を南に下った京都市歴史資料館あたりも花散里邸跡といわれる。 光源氏に求愛された空蝉は、紫式部自身がモデルとも・・・ |
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東北院は、藤原彰子(上東門院)の発願で藤原道長の法成寺東北の一郭に建立された常行三昧堂を始まりとする寺院。 浄土寺真如町に移転するまでは、本禅寺・清浄華院・蘆山寺辺りにあったものと考えられている。 蘆山寺の雲水の井戸は、東北院の遺構とされている。 |
※ | 紫式部の歌は『百人一首』に選ばれている。 |
※ | 大弐三位は紫式部の娘。 |
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平安朝の庭を表現した白砂と苔の庭で、6月から9月にかけては桔梗が咲く。 『源氏物語』に出てくるアサガオはキキョウのことなのだとか。 光源氏が朝顔の姫君に送った和歌にはアサガオが添えられていた。 |
源氏庭に置かれた邸址碑。 紫式部邸は曾祖父の藤原兼輔が建てた旧家。 幼い頃に母(藤原為信女)を亡くした紫式部は、ここで父藤原為時に育てられ、藤原宣孝との婚姻生活を送り、一人娘・賢子(大弐三位)を育てた。 ただ、宣孝との結婚は、宣孝が通ってくる「通い婚」。 浮気性の宣孝が来なくなり、生まれたばかりの賢子と寂しい思いをしたこともあったらしい。 宣孝の死後に書き始めた『源氏物語』を執筆したのもここなのだという。 |
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紫式部が結婚する前、方違えのため泊まっていった男がいる。 『紫式部集』には、その男との贈答歌が収められているが・・・ |
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紫式部が越後にいる父為時に書いた手紙に賢子が書き付けた歌と、紫式部が越後にいる父為時を案じて詠んだ歌。 |
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元三大師堂は、元三大師(慈恵大師良源)の自作とも伝わる元三大師像を祀る堂宇。 |
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紫式部は紫野で生まれ育ったと伝わり、雲林院は『源氏物語』第十帖の「賢木」に登場する。 真珠庵には「紫式部産湯の井戸」がある。 |
![]() (越前市) |
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996年(長徳2年)、紫式部は越前守となった父藤原為時に同行して越前国へ下向。 都を発った一行は、逢坂の関を越えて打出浜から船出。 湖西を通って三尾崎付近に停泊した後、塩津浜に上陸。 塩津山(深坂峠)を越えて敦賀に入り、敦賀から木ノ芽峠を越えて越前国府のある武生へ向かったのだという。 |
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紫式部は晩年を雲林院で過ごしたといわれ、近くには紫式部の墓所がある。 紫式部供養塔は、小野篁のゑんま堂を始まりとする千本ゑんま堂にある。 |
蘆山寺の西側は京都御所(京都御苑)。 |
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京都御苑内には、藤原道長の邸宅・土御門殿や枇杷殿の跡がある。 蘆山寺の南には、道長が建てた法成寺の跡も。 |
慈受院は薄雲御所と呼ばれ、旧地が藤原道長の法成寺の跡地にあったため『源氏物語』ゆかりの寺院とされている。 薄雲の巻では光源氏の初恋の人・藤壺が亡くなっている。 |
京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町397 |
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