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1008年(寛弘5年)7月16日、一条天皇の中宮・藤原彰子は、お産のため土御門殿に里下がり。 『紫式部日記』によると・・・ 秋が深まってきた土御門殿では、池のほとり木々の梢や遣水のほとりの草むらが色づき、彰子の安産を祈る僧の読経の声が響き渡り・・・ 夜になると涼しい風のそよめきに遣水のせせらぎの音が読経の声と溶け合って聞こえていたのだという。 |
土御門殿は、彰子の父・藤原道長の邸宅。 彰子に仕えていた紫式部は、寝殿と東の対の屋を結ぶ渡殿の東側の戸口近くに部屋を与えられていたらしい。 |
1008年(寛弘5年)5月、土御門邸では藤原彰子の安産祈願のための法華三十講が行われた。 紫式部と同じく彰子に仕えていた大納言の君・小少将の君は、それぞれの思いを和歌にのせている。 |
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紫式部が部屋から外を眺めていると、うっすらと霧が立ちこめている朝の草木の露もまだ落ちない時分に道長は庭に出て遣水の手入れをさせている。 そして、橋の南に咲いている盛りの「をみなえし」(女郎花)を一枝折り、几帳の上から寝起き顔の紫式部に見せて即興で歌を詠ませる・・・ 「女郎花 さかりの色を 見るからに 露のわきける身こそ 知らるれ」(紫式部) (朝露が降った女郎花の美しい色を見ると、露に分け隔てされて美しく見えない我が身を思い知られます) 「白露は わきてもおかじ 女郎花 こころからにや 色の染むらむ」(道長返歌)。 (白露は花を分け隔てして降るわけではなく、女郎花は自分から美しい色に染まって咲いているのでしょう) |
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9月11日正午、彰子は無事に皇子を出産(のちの後一条天皇)。 「御湯殿の儀」で宰相の君(藤原豊子)が湯殿役、大納言の君(源廉子)が介添役を務めた。 土御門殿は、安産の上に皇子が誕生して二重の喜びに包まれる一方で、これから続く儀式の準備のために人々が忙しく動き回り・・・ 9月15日には、道長が奉仕する誕生祝の宴(産養の儀)が執り行われている。 10月16日には一条天皇の土御門殿への行幸があり、11月に彰子は還御している。 |
彰子の出産が間近となった9月9日、紫式部は道長の正妻・源倫子から「菊の着せ綿」を贈られている。 |
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一条天皇の土御門殿への行幸の当日、道長は新造の二艘の舟を池辺に漕ぎ寄せて検分している。 |
「御産養」(うぶやしない)は、生後三日、五日、七日、九日目の夜に行われる祝宴。 土御門殿では、9月13日に中宮職、9月15日に道長、9月17日に朝廷、9月19日に藤原頼通の主催で行われている。 |
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「五十日の祝い」は、生誕50日目の夜に行わる儀式。 |
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彰子は、土御門殿に里下がりしている間、草子作りを命じている。 紫式部が中心となって動き、道長から上質の紙や筆・墨などが提供されていることから、草子は『源氏物語』と推測されている。 |
※ | 「草子」は紙を折り重ねて綴じた書物。 |
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『源氏物語』が文献上で初めて登場するは、「五十日の祝い」が行われた1008年(寛弘5年)11月1日。 『紫式部日記』の藤原公任が紫式部を「若紫」と呼ぶ記事。 「若紫」とは『源氏物語』の登場人物・紫の上のこと。 そのことから、千年後の2008年(平成20年)、11月1日は「古典の日」に制定されている。 |
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