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紫の上(むらさきのうえ)は、紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏最愛の女性。 紫の君と呼ばれていたが、光源氏の妻となった後に紫の上と呼ばれている。 父は兵部卿宮。 母は按察使大納言の娘。 兵部卿宮は、光源氏の初恋の人・藤壺の兄なので、紫の上は藤壺の姪となる。 生まれてすぐに母が亡くなり、母方の祖母・北山の尼君に育てられていた。 母の死から10年後、病気の治療のため北山を訪れた光源氏と出会い、祖母の死後、光源氏に引き取られることに。 藤壺によく似た少女は、光源氏の理想の女性に育てられ、正妻・葵の上が亡くなると、正妻同様の扱いとなる。 結婚後、光源氏が朧月夜との密会が露見して摂津国の須磨へ赴いたときもあったが、帰京後は常に光源氏の傍らにあって支え続けた。 子は誕生しなかったが、明石の君が産んだ姫君を養女として二条院に迎え、将来の皇后として育てあげている。 光源氏が新に建設した六条院では、北の方とも呼ばれていた紫の上だったが・・・ 光源氏が朱雀院の第三皇女・女三宮を継室にすると、実子を持たず正妻でもなかった紫の上は、自分の身の不安定さに苦しむことに。 そして、光源氏とも次第に疎遠となり、心労が重なって37歳の厄年に重病となって二条院へ移った。 病が回復することはなく、晩年は出家を願うが、光源氏はそれを許さなかった・・・ 亡くなる年の3月、紫の上の発願で法華経千部の供養が二条院で行われた。 明石の御方や花散里も訪れ、紫の上はこれが最後と別れを惜しむ。 そして、8月14日、明石の中宮(明石の姫君)と光源氏に看取られて息を引き取った。 |
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鞍馬寺と大雲寺は、「若紫の巻」で光源氏と紫の上との出会いの場として描かれた「北山のなにがし寺」のモデルといわれる。 |
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「須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに、植ゑし若木の桜ほのかに咲き初めて、空のけしきうららかなるに、よろづのこと思し出でられて、うち泣きたまふ折多かり」 「若木の桜」は光源氏が紫の上を想って植えた桜。 須磨寺の源平の庭に「若木の桜跡」が残されている。 |
六条院は、『源氏物語』の中で光源氏が六条京極に造営した架空の建築物。 |
光源氏の母・桐壺更衣と紫の上の葬儀が行われた寺のモデルは六道珍皇寺らしい。 |
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「若菜上」で光源氏の兄・朱雀院が出家した寺は、仁和寺がモデルらしい。 大覚寺は嵯峨天皇が営んだ嵯峨院を前身とする寺。 紫の上の死後、出家した光源氏は、嵯峨院で暮らしたらしい・・・。 |
『紫式部日記』によると・・・ 1008年(寛弘5年)11月1日、公任が紫式部に、 「恐れ入りますが、このあたりに若紫の姫君がおられるのでは」 と語りかけると、紫式部は、 「光源氏らしき人がいないので、紫の上がいるわけがない」と無視したのだとか。 「若紫」とは『源氏物語』の登場人物・紫の上のこと。 この記述は、『源氏物語』が歴史上で初めて記録されたものであることから、11月1日は「古典の日」に制定されている。 |
「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」 藤原公任が紫式部にこう語りかけたのは、藤原彰子が土御門殿で産んだ一条天皇の第二皇子(のちの後一条天皇)の誕生五十日の祝宴の日。 |
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