奈良・京都

京都:大覚寺
〜嵯峨御所〜

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大覚寺


 大覚寺は、平安のはじめ、嵯峨天皇が営んだ離宮「嵯峨院」を前身とし、弘法大師(空海)が、離宮内に五大明王を安置する堂を建てたことに始まる。

 876年(貞観18年)、嵯峨天皇の皇女・正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改め「大覚寺」とした。

 開山は、淳和天皇の皇子・恒貞親王(恒寂(ごうじゃく)法親王)。

 鎌倉時代に後嵯峨法皇、亀山法皇、後宇多法皇が院政を行ったことから「嵯峨御所」とも呼ばれ、のちの明治に至るまで法親王が住持を務めた門跡寺院。

 正式名称は、旧嵯峨御所大覚寺門跡。


真言宗大覚寺派大本山

本尊:五大明王





大覚寺宸殿
宸殿

大覚寺
御影堂

大覚寺回廊


 宸殿、正神殿などの建物が回廊で結ばれて建ち並ぶ境内は、御所風の雰囲気が漂う。

 本堂にあたる五大堂の観月台からは、嵯峨院の苑池として造られた大沢池を一望することができる。


大覚寺大沢池
大沢池







〜大覚寺統と持明院統〜

 1246年(寛元4年)、後嵯峨天皇は、久仁親王(後深草天皇)に譲位するが、1259年(正元元年)には、後深草天皇の弟恒仁親王(亀山天皇)へ譲位させた。

 さらに、亀山天皇の皇子世仁親王を皇太子(後宇多天皇)として崩御してしまう。

 このため、皇位継承を巡って皇室が分裂、亀山天皇の系統と後宇多天皇の系統が交互に皇位につくこととされ、後宇多天皇の後は後深草天皇の皇子熈仁(ひろひと)親王(伏見天皇)に譲位された。

 亀山天皇の系統は、出家後大覚寺で院政を行ったことから大覚寺統と呼ばれ、一方の後深草天皇の系統は持明院で院政を行ったことから持明院統と呼ばれるようになる。

 1317年(文保元年)、持明院統の伏見法皇が崩御すると、両統の対立が激しくなり、鎌倉幕府は今後の皇位継承についての仲裁を行っている(文保の和談)。

 この対立がのちの南北朝の分裂へと繋がっていく。



祇王寺
リンクボタン祇王寺

 平清盛の寵愛をうけた祇王と仏御前の物語で知られる祇王寺。
 明治に入って廃寺となったが、大覚寺に属し復興された(塔頭)。



大覚寺
大覚寺

京都市右京区嵯峨大沢町4

「嵯峨嵐山駅」から徒歩17分
「嵐山駅」から徒歩で23分






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