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藤壺(ふじつぼ)は、紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏の初恋の人。 藤壺の宮・藤壺中宮とも。 光源氏の父・桐壺帝が、光源氏の母・桐壺更衣の死後に女御として入内させた。 桐壺更衣に瓜二つの美貌で、「輝く日の宮」と称された女性。 3歳で母を亡くし、亡き母に似ているといわれる藤壺に懐いていた光源氏は・・・ 葵の上を正妻とするが、やがて藤壺に恋をする。 そして、病気になった藤壺が里下がりしたときに関係を持ち、光源氏に生き写しの男児が生まれる(のちの冷泉帝)。 皇子の誕生に桐壺帝は喜び溺愛するが、桐壺帝の子ではない・・・ 皇子誕生で藤壺は中宮に立てられたが心は複雑だった・・・ その後、桐壺帝が朱雀帝に譲位、さらに桐壺帝が崩御。 朱雀帝の母・弘徽殿女御(太后)の勢力が増大する中、後ろ盾のいない藤壺は・・・ 光源氏からの求愛に悩みながら、東宮(皇太子)である我が子の後見役である光源氏をないがしろにはできず・・・ かといって、光源氏の願いを叶えてしまえば、いずれ人に知られて東宮の立場が危うくなる・・・ さらに、傷心した光源氏が出家してしまったら東宮の後見がなくなってしまう・・・ そして、東宮を守るために最終的に出した結論は、出家だった。 東宮(冷泉帝)が即位した後は国母として活躍するが、37歳で崩御。 |
光源氏の正妻・葵の上の亡き後、正妻格となった紫の上は藤壺の姪。 |
鞍馬寺 |
大雲寺 |
「若紫の巻」で、病気の治療のため北山を訪れた光源氏は、通りかかった家で藤壺に似た少女を垣間見る。 光源氏は、この少女を引き取って育てることにするが・・・ この少女が紫の上。 鞍馬寺と大雲寺は、光源氏と紫の上との出会いの場として描かれた「北山のなにがし寺」のモデルといわれる。 |
雲林院は、藤壺に拒まれて傷心の光源氏が参籠した寺。 光源氏は出家を考えたが、紫の上のことを思うと出家できなかったらしい。 |
平安宮(大内裏)の飛香舎は、庭に藤が植えられていたことから「藤壺」と呼ばれ、『源氏物語』では藤壺が居所としている。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 平安時代の内裏(御所)は、現在の京都御所の西方にあった。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
藤壺のモデルは、藤原道長の娘で一条天皇の中宮・藤原彰子という説がある。 彰子は紫式部の上司。 光源氏の母・桐壺更衣のモデルは藤原定子といわれているので、藤壺のモデルが彰子ということはあるのかも。 また、朱雀天皇の皇女で冷泉天皇の皇后宮の昌子内親王という説も。 |
紫式部は偶然に出逢った幼い頃の友のことを詠んでいる。 その友とは、昌子内親王に仕えていた頃の友という説がある。 |
紫式部の歌~めぐりあひて:百人一首・新古今和歌集~ |
慈受院は薄雲御所と呼ばれ、旧地が藤原道長の法成寺の跡地にあったため『源氏物語』ゆかりの寺院とされている。 藤壺が崩御した「薄雲の巻」で光源氏は 「入日さす 峰にたなびく 薄雲は もの思ふ袖に 色やまがへる」 と詠んでいる。 |
藤壺の死後、光源氏は前賀茂斎院の朝顔に執心し、紫の上を悲しませるが、朝顔には拒絶されてしまう。 朝顔を諦めた光源氏は、雪の夜、紫の上を慰めながら藤壺のことを語るのだが、その夜、藤壺が光源氏の夢枕に現れている。 翌日、光源氏は藤壺を供養し、叶う事なら極楽浄土で同じ蓮の葉に座ることを願った。 |
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