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雲林院(うんりんいん)は、淳和天皇(在位・823ー833)の離宮・紫野院として造営されたのが始まり。 桜や紅葉の名所として知られ、淳和天皇は度々行幸していたのだという。 その後、仁明天皇の離宮となり、さらに皇子の常康親王に譲られた。 常康親王死後の869年(貞観11年)、遍昭が招かれて雲林院となる。 雲林院は、鎌倉時代までは天台宗の官寺として栄えたが、その後衰退し、1324年(正中元年)、雲林院の敷地内に建立された大徳寺の塔頭となった。 しかし、応仁の乱の兵火により廃絶。 現在の雲林院は、1707年(宝永4年)の再建。 |
紫野院を雲林院とした遍昭は、花山天皇が出家した元慶寺を開いた僧。 885年(仁和元年)には僧正となり、花山僧正と呼ばれた。 |
新嘗祭の豊明節会で五節の舞姫を見た遍昭が詠んだ歌。 遍昭僧正の歌 天女のように美しい舞姫 |
雲林院がある紫野は、桓武天皇が平安遷都を決めた地とされる船岡山の麓。 『源氏物語』や『紫式部日記』で知られる紫式部は、紫野で生まれ育ったといわれる。 紫という名は紫野に由来するとも・・・ |
『源氏物語』〜賢木の巻〜では・・・ 藤壺に拒まれた傷心の光源氏は自邸に籠っていたが、体裁が悪いので、母の桐壺更衣の兄の律師がいる雲林院に参籠している。 |
真珠庵は、かつての雲林院の敷地内に建てられた大徳寺の塔頭。 境内には「紫式部産湯の井」がある。 |
雲林院の近くには紫式部の墓がある。 曾祖父の藤原兼輔が鴨川の西に建てた旧家に住んで『源氏物語』を執筆したという紫式部。 その晩年は、雲林院百毫院で過ごしたのだという。 室町時代に成立した『源氏物語』の注釈書『河海抄』には、紫式部の墓所は雲林院白毫院の南と記されているらしい。 |
蘆山寺は紫式部の邸跡。 『源氏物語』は、この地で執筆されたとされる。 |
『枕草子』で知られる清少納言は、賀茂祭(葵祭)の翌日に斎王が斎院に帰るのを雲林院や知足院(現在の常徳寺)前で見物したのだという。 |
賀茂祭(葵祭)は、上賀茂神社と下鴨神社の祭礼。 |
大徳寺は、1315年(正和4年)創建の臨済宗大徳寺派の大本山。 戦国武将から信仰され、境内には多くの塔頭が建ち並ぶ。 |
京都市北区紫野大徳寺町53 JR京都駅から市バス「大徳寺」下車。 |
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