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清少納言は『枕草子』に 「四月、祭のころ、いとをかし」 と記しています。 祭とは賀茂祭(現在の葵祭)のこと。 さらに・・・ 「見物は、臨時の祭 行幸 祭の還さ 御賀茂詣で」 と記し、見物に値する行事として、石清水の臨時祭・賀茂の臨時祭・天皇の行幸・斎王の還御・摂政関白の賀茂詣を挙げています。 そして、 「祭のかへさ、いとをかし」 と記し、 賀茂祭の翌日に斎王が上賀茂神社から紫野の斎院に帰る行列は、本当に素晴らしいと伝えています。 「いとをかし」は『枕草子』の最高美的評価。 |
賀茂祭を主宰する斎王は、4月の酉の日、賀茂斎院(斎王の御所)を出御して一条大宮で勅使の行列と合流。 下鴨神社と上賀茂神社を参拝し、翌日に賀茂斎院に戻ったのだといいます。 賀茂斎院は、紫野にあったことから紫野斎院とも呼ばれます。 |
『枕草子』によると、雲林院や知足院などが賀茂祭の行列見物の名所となっていたようです。 |
現在の雲林院は、大徳寺の塔頭となっていますが、かつては官寺として栄えた寺。 紫式部の『源氏物語』にも登場します。 |
常徳寺は知足院をはじまりとする寺。 源義経の母常盤御前が信仰した寺でもあります。 |
998年(長徳3年)の賀茂祭の日、花山法皇が藤原公任と藤原斉信を乗せた牛車を襲わせ、藤原道長が検非違使を出動させる事件が発生。 左衛門尉(検非違使尉)の橘則光が交渉にあたり、花山法皇は襲った者を差し出したらしい。 則光は清少納言 |
花山法皇の濫行事件〜賀茂祭の日に検非違使出動!〜 |
『枕草子』に紹介されている御賀茂詣は、賀茂祭の前日に摂政・関白が賀茂社を参拝すること。 『吾妻鏡』によると、1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿落慶供養参列のため上洛していた源頼朝は、御家人たちに関白九条兼実の賀茂詣の見物を禁止しています。 この上洛で頼朝は、これまで協力してきた兼実と敵対関係にある丹後局と源通親に接近し、長女大姫の入内運動を行っています。 そのため、この禁止令は、兼実との関係を断ち切ったことを意味するという説もあるようですがどうなのでしょう? |
賀茂祭(葵祭)は、賀茂神社の祭礼。 |
賀茂別雷神社 (上賀茂神社) |
賀茂御祖神社 (下鴨神社) |
賀茂神社は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称。 古くより朝廷から崇敬され、794年(延暦13年)の平安遷都後は山城国の一之宮となり、王城鎮護の神として一層崇敬され、802年(大同2年)には正一位の神階を受け、賀茂祭(葵祭)は勅祭とされました。 石清水八幡宮の例祭(石清水祭)・春日大社の例祭(春日祭)と賀茂祭(葵祭)は三大勅祭です。 |
「埒が明く」「埒が明かない」という言葉は、上賀茂神社の競馬会から生まれた・・・ |
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府政所の別当だった大江広元は、後白河法皇の法住寺殿を修繕するため在京した時、賀茂祭に供奉したらしい。 |
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府四代将軍の九条頼経は、上洛した際、賀茂祭を見物したらしい。 |
葵祭前日(5月14日)、琵琶湖西岸・堅田から下鴨神社へ鮒が献上される。 |
申餅 |
みたらし団子 |
かつての葵祭では、申の日に申餅を供え、無病息災を祈願したのだといいます。 「みたらし団子」は、下鴨神社の御手洗池の底から湧き出る水泡をかたどったのだといわれています。 |
清少納言の父清原元輔は、奉幣使として加わった賀茂祭で落馬。 冠が滑り落ちて禿げ頭を晒してしまったのだとか。 |
藤原道綱母は、賀茂祭見物の際、藤原時姫に連歌対決を挑んだ・・・ |
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