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玉依媛命と賀茂別雷大神〜賀茂神社由来物語と葵祭

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葵祭・葵桂
葵桂


 ある日、賀茂川で川遊びをしていた玉依媛命(たまよりひめのみこと)。

 すると、川上から朱塗りの矢が流れてきました。

 その矢を拾い上げて持ち帰ると、神の子を身籠り、やがて男の子が生まれました。

 男子が成人すると、玉依比売の父・建角身命(たけつのみのみこと)は、祝宴を開きます。

 その席上、建角身命が男子に

 「お前の父親にもこの酒を飲ませてあげなさい」

 と杯を渡すと

 「われは神の御子なり」

 と叫んで杯を上に投げ、そのまま天に昇っていきました。

 玉依比売は嘆き悲しみましたが・・・

 ある夜、夢の中に男子が現れ「葵桂(あおいかつら)を作って飾るように」と告げます。

 お告げのとおりに祭事を営むと、神山に賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)が降臨したのだといいます。



葵祭
リンクボタン葵祭

 葵桂は、葵の葉と桂の枝葉を絡ませて作られたもの。

 賀茂神社の祭礼「葵祭」(賀茂祭)で、勅使や供奉者の衣冠、牛車などに葵桂が飾られるのは、この伝説に基づくものなのだとか。





埒が明く・・・埒が明かない・・・


 「埒が明く」「埒が明かない」という言葉は、上賀茂神社の競馬会から生まれた・・・




賀茂祭に供奉した大江広元


 『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府政所の別当だった大江広元は、後白河法皇法住寺殿を修繕するため在京した時、賀茂祭に供奉したらしい。




四代将軍九条頼経 賀茂祭を見物する!


 『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府四代将軍の九条頼経は、上洛した際、賀茂祭を見物したらしい。




堅田供御人鮒奉献奉告祭


 葵祭前日(5月14日)、琵琶湖西岸・堅田から下鴨神社へ鮒が献上される。










上賀茂神社
リンクボタン賀茂別雷神社
(上賀茂神社)
下鴨神社
リンクボタン賀茂御祖神社
(下鴨神社)


 賀茂神社は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称。

 古くより朝廷から崇敬され、794年(延暦13年)の平安遷都後は山城国の一之宮となり、王城鎮護の神として一層崇敬され、802年(大同2年)には正一位の神階を受け、賀茂祭(葵祭)は勅祭とされました。

 石清水八幡宮の例祭(石清水祭)・春日大社の例祭(春日祭)と賀茂祭(葵祭)は三大勅祭です。



上賀茂神社・片岡社
リンクボタン片山御子神社

 上賀茂神社の摂社・片山御子神社(片岡社)は、賀茂別雷大神の母・玉依媛命を祀る神社。

 絵馬はハート形で葵の葉を模したもの。



下鴨神社の申餅
リンクボタン申餅
みたらし団子
リンクボタンみたらし団子


 かつての葵祭では、申の日に申餅を供え、無病息災を祈願したのだといいます。

 「みたらし団子」は、下鴨神社御手洗池の底から湧き出る水泡をかたどったのだといわれています。





〜伊勢神宮の斎王〜

野宮神社
リンクボタン野宮神社

 嵯峨の野宮神社は、伊勢神宮に仕える斎王が、伊勢神宮に赴く前に心身を清めた「野宮」があった地に鎮座します。

 紫式部『源氏物語』〜賢木の巻〜にも描かれました。

 野宮神社で秋に行われる「斎王群行」は、斎王が伊勢神宮へと向かう行列を再現したもの。



紫式部


『源氏物語』葵の巻〜葵の上と六条御息所の車争い〜





〜賀茂祭の還さ、いとをかし〜

賀茂祭の還御の行列「いとをかし」


 清少納言は『枕草子』に、斎王が上賀茂神社から紫野の斎院に帰る行列は、本当に素晴らしいと記しています。





〜落馬した清少納言の父〜

賀茂祭で落馬した清少納言の父清原元輔


 清少納言の父清原元輔は、奉幣使として加わった賀茂祭で落馬。

 冠が滑り落ちて禿げ頭を晒してしまったのだとか。





〜賀茂祭の連歌対決〜

賀茂祭の連歌対決


 藤原道綱母は、賀茂祭見物の際、藤原時姫に連歌対決を挑んだ・・・









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