紫式部「光る君へ」


藤原斉信
藤原道長に仕えた公卿
一条朝の四納言


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 藤原斉信(ふじわらのただのぶ・なりのぶ)は、太政大臣・藤原為光の次男。

 母は、藤原敦敏の娘。

 967年 (康保4年)誕生。

 一条天皇の時代に秀才として知られた四納言の一人。



藤原師輔

伊尹

兼家

為光

斉信





~藤原道長に仕えて昇進~

 円融朝花山朝で順調に昇進。

 994年(正暦5年)、宮中の諸事を司る蔵人頭(頭中将)に。

 この頃、一条天皇の中宮・藤原定子に仕えていた清少納言とも交流あったらしい。

 995年(長徳元年)4月、仕えていた関白・藤原道隆が薨去。

 関白を引き継いだ道隆の弟道兼も5月に薨去。

 その後・・・

 道隆の嫡男伊周は、叔父の藤原道長と関白の座を争うが、道長が氏の長者となり、伊周は失脚。

 斉信は、中関白家(道隆一族)から距離を置いて道長に接近したらしい。

 翌年の長徳の変後、伊周とその弟隆家が左遷されると、参議に任じられている。

 1001年(長保3年)には権中納言、1009年(寛弘6年)には権大納言に昇進した。

 この頃は、道長の長女で一条天皇の中宮となっていた藤原彰子にも仕えていたらしい。

 私的に道長邸を訪問するようにもなり、藤原実資からは、同じように訪問していた藤原行成らとともに「道長の従者になり下がった」と批判されている。





紫きぶ七橋・岩永橋
リンクボタン渡殿にある紫式部の局に立ち寄る斉信と実成
 (越前市・紫きぶ七橋)


 1008年(寛弘5年)、藤原彰子一条天皇の第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)を出産すると、正二位に叙任された。

 斉信は、同じく特別昇進した藤原実成とともに、彰子に礼を申し上げるための取次ぎを求めて宮の内侍(橘良芸子)と紫式部を訪ねている。





~先に蔵人頭になった源俊賢~

 992年(正暦3年)、蔵人頭だった藤原公任が参議に昇進。

 斉信は、次に蔵人頭になるのは自分と信じていたが、任じられたのは源俊賢だった。

 参内したとき、俊賢に「誰が蔵人頭になった?」と尋ねたという斉信。

 俊賢に自分がなったと言われ、恥をかいたのだとか。



~兄誠信に頼まれていたのに・・・~

 1001年(長保3年)、斉信の兄・誠信は権中納言への昇任申請をする予定だった。

 そのため、斉信は誠信から「辞退するように」と言われていたが・・・

 道長に昇任申請するよう勧められた斉信は、そのとおりにして権中納言になってしまう。

 これに憤激した誠信は、絶食して病となり、間もなく亡くなってしまったのだとか。



~妍子の滞在場所を提供~

 1013年(長和2年)、道長の次女・藤原妍子の御所(東三条殿)が焼亡。

 斉信は郁芳門第を妍子の滞在場所として提供し、道長に喜ばれたのだという。










~出世は大納言まで~

 1017年(寛仁元年)、道長が左大臣から太政大臣に昇進。

 左大臣には藤原顕光が就任し、斉信と同じ権大納言で道長の嫡子・頼通が内大臣となる。

 1020年(寛仁元年)、斉信は大納言に昇進するが・・・

 1021年(治安元年)、左大臣の藤原顕光が死去すると、太政大臣に叔父の藤原公季、左大臣に頼通、右大臣には上席大納言の藤原実資が任ぜられた。

 そして内大臣には、権大納言で道長の五男・教通が任ぜられることに。

 同年、斉信は道長の六男・長家に娘を嫁がせるが、1025年(万寿2年)、赤斑瘡のために早産して赤子は死亡、本人も間もなく亡くなっている。


道長の太政大臣の就任は、後一条天皇元服の加冠役をするためで、道長はすぐに辞任している。

1021年(治安元年)の人事で正の大納言は斉信一人となった。



法住寺
リンクボタン法住寺

 法住寺は、斉信の父為光が妻と、花山天皇の女御だった娘忯子の菩提を弔うために建立した寺。

 斉信の娘は法住寺に葬られた。

 法住寺で営まれた四十九日法要で、斉信は力を落とし歩くことも困難な有様だったのだという。



~忯子は何故死んだ?~

リンクボタン藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~





~薨去~

 その後も、左大臣・頼通、右大臣・実資、内大臣・教通の時代が続く。

 大臣を望んでいたという斉信は、大臣になることはなく、1035年(長元8年)3月23日薨去(享年69)。





~定子の道隆追悼と斉信~

 清少納言の『枕草子』によると、藤原定子は毎月10日に父道隆の供養をしていたのだという。

 9月10日の追悼では、清水寺の清範の法話に皆が感動。

 その後、酒を飲んだり、詩をそらんじたりしていると・・・

 蔵人頭の斉信が「月秋と期して身いづくか」と朗詠し、とても素晴らしかったのだとか。

 (秋の月を愛でた人はどこに行ってしまったのだろう?)

 これは菅原道真の孫・文時の漢詩(月與秋期而身何去)で、藤原公任の『和漢朗詠集』にも収められている。

 この後、斉信は清少納言に「どうして私と親しく付き合ってくださらないのか」と問うと、

 清少納言は「親しい関係になったら褒めることができなくなるのが残念なので今の関係で」と答えたのだとか・・・



リンクボタン藤原斉信が詠じた月與秋期而身何去~中宮定子と清少納言:枕草子~





~一条朝の四納言~

 一条天皇の時代に活躍した源俊賢藤原公任・藤原斉信・藤原行成は、「一条朝の四納言」と呼ばれた。





~花山法皇の濫行事件~

 997年(長徳3年)の賀茂祭の日、花山法皇藤原公任と斉信の牛車を襲わせる事件が発生。

 藤原道長が検非違使を出動させる事件となったが、左衛門尉(検非違使尉)だった橘則光が交渉して花山法皇に襲った者を引き出させたのだという。 


リンクボタン花山法皇の濫行事件~賀茂祭の日に検非違使出動!~










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