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東三条殿は、摂関家相伝の邸宅。 「東三条院」・「東三条院殿」・「東三条第」とも呼ばれた。 藤原道長の父・藤原兼家の時代に最大となり、兼家は「東三条殿」と呼ばれていた。 兼家は、一部を内裏の清涼殿に模して建て替えたりして非難もされたのだという。 この邸宅で兼家の長女・藤原超子は三条天皇を、次女の詮子は一条天皇を産んでいる。 詮子の里内裏としても使用され、一条天皇の即位後、皇太后となった詮子は「東三条院」と呼ばれた。 兼家の死後は、嫡男・道隆に継承され、娘の定子は東三条殿から一条天皇に入内している。 道隆の三女・原子は、東対の建物で亡くなったのだという。 道隆の死後は道長が相伝し、一条天皇が退位すると、三条天皇は東三条殿から内裏に入っている。 道長の娘で三条天皇の中宮となった藤原妍子の御所、一条天皇の中宮・藤原彰子が産んだ後朱雀天皇の里内裏としても使用された。 後朱雀天皇は、皇后宮の禎子内親王が産んだ尊仁親王を後冷泉天皇の皇太子とする遺詔を発している。 |
道長の兄道隆は東三条殿で薨去。 道隆没後、道隆の嫡子・伊周との争いに勝って政治の中枢に立った道長は、道隆の怨霊を恐れたのだという。 1029年(長元2年)、東三条殿で病に倒れた道長の子・頼通は、道隆の怨霊が病を惹き起こしたと告げられ、東三条殿から退避したのだとか。 |
1011年(寛弘8年)、三条天皇が即位すると、翌年、道長は娘の妍子を中宮とする。 これに対し、三条天皇は藤原娍子を皇后宮とした。 娍子の立后の儀式の日・・・ 道長が「同日は中宮妍子の参内の日である」として出席しないと、多くの公卿が道長に従って妍子の御所・東三条殿に集まってしまったのだという。 そのため、儀式に参列したのは、娍子の弟・藤原通任と藤原実資・藤原隆家・藤原懐平の公卿のみだったのだとか。 |
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1005年(寛弘2年)に内裏が焼失すると一条天皇は、一時、東三条院に遷ってから、一条院に遷御している。 大極殿は、平安京の大内裏(平安宮・宮城)にあった朝堂院の正殿。 一条院は、一条天皇の里内裏として使用された。 |
土御門第は、藤原道長の本邸。 皇太后となった詮子は、東三条院には住まず、弟の道長の土御門第を御所とし、一時、一条院に住むが、再び土御門第に戻ったのだという。 |
『源氏物語』の主人公・光源氏が建設した六条院は、東三条殿がモデルともいわれる。 |
京都市上京区押小路通釜座上松屋町 |
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