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東三条殿は、二条大路南西洞院大路東にあった摂関家相伝の邸宅。 「東三条院」・「東三条院殿」・「東三条第」とも呼ばれた。 藤原道長の父・藤原兼家の時代に最大となり、兼家は「東三条殿」と呼ばれていた。 兼家は、一部を内裏の清涼殿に模して建て替えたりして非難もされたのだという。 この邸宅で兼家の長女・藤原超子は三条天皇を、次女の詮子は一条天皇を産んでいる。 詮子の里内裏としても使用され、一条天皇の即位後、皇太后となった詮子は「東三条院」と呼ばれた。 兼家の死後は、嫡男・道隆に継承され、道隆の長女・定子は東三条殿から一条天皇に入内している。 道隆の三女・原子は、東対の建物で亡くなったのだという。 道隆の死後は道長が相伝し、一条天皇が退位すると、三条天皇は東三条殿から内裏に入っている。 道長の娘で三条天皇の中宮となった藤原妍子の御所、一条天皇の中宮・藤原彰子が産んだ後朱雀天皇の里内裏としても使用された。 後朱雀天皇は、皇后宮の禎子内親王が産んだ尊仁親王を後冷泉天皇の皇太子とする遺詔を発している。 |
清涼殿跡 (平安宮) |
清涼殿 (京都御所) |
藤原兼家が模したという清涼殿は、天皇の居所。 |
堀河院(堀河殿)は、藤原兼家の兄・兼通が所有した邸宅。 兼家を遠ざけていた円融天皇は、内裏が焼失した際、東三条殿ではなく堀河殿を里内裏とした。 |
閑院は、堀河院と東三条殿の中間にあった邸宅。 閑院に住んでいた藤原兼通の子・朝光は、堀河殿の円融院と閑院に咲く桜をめぐって和歌のやり取りをしたのだという。 |
藤原兼通と藤原兼家~兄兼通に左遷された弟兼家~ |
990年(正暦元年)、藤原兼家が東三条殿で薨去すると、遺族は渡廊の板敷を取り除いて土間とし(土殿)、喪に服するために籠ったのだという。 ただ、兼家を恨んでいた三男の道兼は遊興に耽っていたらしい。 |
藤原兼家の葬送 |
道長の兄道隆は東三条殿で薨去。 道隆没後、道隆の嫡子・伊周との争いに勝って政治の中枢に立った道長は、道隆の怨霊を恐れたのだという。 1029年(長元2年)、東三条殿で病に倒れた道長の子・頼通は、道隆の怨霊が病を惹き起こしたと告げられ、東三条殿から退避したのだとか。 |
1011年(寛弘8年)、三条天皇が即位すると、翌年、道長は娘の妍子を中宮とする。 これに対し、三条天皇は藤原娍子を皇后宮とした。 娍子の立后の儀式の日・・・ 道長が「同日は中宮妍子の参内の日である」として出席しないと、多くの公卿が道長に従って妍子の御所・東三条殿に集まってしまったのだという。 そのため、儀式に参列したのは、娍子の弟・藤原通任と藤原実資・藤原隆家・藤原懐平の公卿のみだったのだとか。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮(大内裏)は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮(大内裏)の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 |
1005年(寛弘2年)に内裏が焼失すると一条天皇は、一時、東三条院に遷ってから、翌年、一条院に遷御している。 一条院は、一条天皇の里内裏として使用された。 |
紫式部が一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えた時期については、1005年(寛弘2年)12月29日とする説と、翌寛弘3年12月29日とする説などがある。 内裏が焼失してしまっていることから、初出仕の場所は、寛弘2年ならば東三条院、寛弘3年ならば一条院ということになる。 |
法雲寺は、藤原兼家の別邸・二条第跡にある寺院。 |
土御門第(土御門殿)は、藤原道長の本邸。 皇太后となった詮子は、東三条院には住まず、弟の道長の土御門第を御所とし、一時、一条院に住むが、再び土御門第に戻ったのだという。 晩年は、平惟仲の屋敷を御所としていたらしい。 |
藤原詮子の晩年 ~平惟仲邸が御所・藤原行成邸で崩御~ |
東山区の大将軍神社は、土御門殿があった地との伝承があり、藤原兼家が合祀されている。 |
『源氏物語』の主人公・光源氏が建設した六条院は、東三条殿がモデルともいわれる。 |
京都市上京区押小路通釜座上松屋町 |
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