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一条院は、平安宮の北東に隣接した邸宅。 もとは、藤原師輔の屋敷で、子の伊尹、為光に受け継がれたが、佐伯公行が為光の娘・寝殿の上から取得し、一条天皇の生母・藤原詮子に献上した。 寝殿の上は、藤原道長と政権を争った藤原伊周の思い人・三の君のことで、花山天皇が寵愛した藤原忯子の妹。 999年(長保元年)6月14日、祇園御霊会の日に内裏を焼かれてしまった一条天皇が6月16日に遷御。 詮子は御所として修造し、崩御の時まで一条天皇の里内裏として使用された。 藤原道長と一条天皇の中宮・藤原彰子の宿泊所も設けられ、「紫式部日記」に登場する内裏は一条院のことなのだという。 1055年(天喜3年)には、取り壊された冷泉院が移築されているらしい。 南北朝期、後醍醐天皇の倒幕に参加し、足利尊氏に敗れて討死した名和長年終焉の地とも伝えられる。 |
大極殿は、平安京の大内裏(平安宮・宮城)にあった朝堂院の正殿。 |
999年(長保元年)6月14日の祇園御霊会で、雑芸者の無骨が大嘗祭で使われる標山に似せた作山を製作し、八坂社の社頭で引き回した。 藤原道長は禁止令を出したが、祇園天神の怒りにあい、内裏が焼失してしまったのだと伝えられている。 現在の祇園祭の山鉾巡行は、無骨の作山が起源なのだとか。 |
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999年(長保元年)の内裏焼失後、一条院に遷御した一条天皇は・・・ 1000年(長保2年)に内裏が再建されると、10月11日に還御。 しかし、1001年(長保3年)11月18日、再び内裏が焼失。 11月22日、再び一条院に遷御した。 1003年(長保5年)、内裏が再建されると、10月8日に還御するが、1005年(寛弘2年)11月15日、またも内裏が焼失。 この時は、いったん東三条殿(東三条院)に遷った後、1006年(寛弘3年)3月4日、一条院に遷御。 同年には内裏が再建されるが、還御しなかったのだという(一時還御しているという説もある。)。 1009年(寛弘6年)10月5日、今度は一条院が焼失。 すぐに一条院の再建が始まり、1010年(寛弘7年)11月28日、枇杷殿から再建された一条院に遷御している。 1011年(寛弘8年)6月22日、一条院中殿で崩御。 |
内裏が何度も焼失したため、一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えていた『源氏物語』の作者・紫式部も一条院に出仕していた。 |
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東三条院は、摂関家の邸宅で藤原兼家の長女・藤原超子は三条天皇を、次女の詮子は一条天皇を産んでいる。 枇杷殿は、藤原道長の邸宅で、次女で三条天皇の皇后となった妍子の里邸として整備された。 紫式部が仕えた邸宅でもある。 清少納言も出仕していたというが・・・ |
京都市上京区大宮通中立売上ル糸屋町 地下鉄今出川駅下車 徒歩20分 |
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