無骨の山鉾を禁止した藤原道長と祇園天神の怒り |
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歴史書「本朝世紀」によると・・・ 999年(長保元年)の祇園御霊会でのこと。 雑芸者の無骨(むこつ)という法師が、大嘗祭で使われる標山に似せた作山を製作し、祇園八坂社の社頭で引き回した。 それを聞いた藤原道長は驚いて、無骨の行為を止めさせ、検非違使に捕らえるよう命じたが、逃げられてしまったのだという。 |
※ | 大嘗祭は新天皇の即位後に初めて行なう新嘗祭(収穫感謝の祭)のこと。 |
その夜、平安宮が全焼し、一条天皇は母后・藤原詮子の御在所(一条院)に遷御している。 この火災は、 「疫病退散を願って行った無骨の行為を禁止した」 ことに対する祇園天神(牛頭天王)の怒りによるものと噂された。 無骨の本名は頼信。 柔らかな身のこなしをする技芸から無骨と呼ばれ、前年から人気を集めていたのだという。 「本朝世紀」が伝えているこの出来事は、祇園御霊会が宮中の催しから民衆の催しへと変化していることを表すもので、無骨の山鉾が祇園祭の山鉾巡行の起源といわれている。 参考までに・・・ 道長は、1013年(長和2年)の祇園御霊会でも「散楽空車」(散楽を演じながら進む屋根のない山車)を禁止。 雑人たちによって散楽人の衣装が破かれたりしたそうだが・・・ 人々が祟りを恐れていると、氷の雨が降り、電光が走ったのだとか。 |
「祇園祭」は、7月1日から1ヵ月にわたって行われる八坂神社の祭礼。 7月1日の「吉符入」からはじまり、31日の八坂神社境内摂社・疫神社の「夏越祭」で幕を閉じます。 上賀茂神社と下鴨神社の葵祭 ・ 平安神宮の時代祭とともに京都三大祭の一つ。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
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