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藤原詮子(ふじわらのせんし・あきこ)は、摂政・関白・太政大臣を務めた藤原兼家の次女。 母は藤原時姫。 962年(応和2年)誕生。 |
藤原兼家 |
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978(天元元年)、円融天皇に入内して女御となる。 980年(天元3年)、円融天皇の第一皇子・懐仁親王を出産(のちの一条天皇)。 |
詮子は、摂関家の邸宅・東三条院(東三条殿)で懐仁親王(一条天皇)を産んだが・・・ 関白・藤原頼忠の娘・遵子も円融天皇の女御となっており、詮子は遵子と中宮(皇后)の座を争うことに。 しかし、中宮になったのは詮子ではなく遵子だった。 982年(天元5年)の遵子が皇后に定められた日、遵子の弟・藤原公任は東三条院の前で 「こちらの女御はいつ皇后になられるのか」 と言い放ち、詮子・兼家の恨みを買ったのだという。 |
※ | 円融天皇には中宮・藤原媓子がいたが、979年(天元2年)に崩御している。 |
986年(寛和2年)6月23日、一条天皇が即位したことにより、詮子は7月5日に皇太后となる。 遵子の弟・公任は、詮子の参内に供奉していたとき・・・ 「妊娠できない姉君はどちらに?」 と詮子の女房らに皮肉られたのだという 991年(正暦2年)3月1日、円融法皇が崩御。 9月16日、出家した詮子は、院号宣下を受け「東三条院」を称した。 これが女院号のはじまりで、弟の藤原道長の娘・彰子は、詮子にならって上東門院を称した。 |
990年(永祚2年)7月2日、父の兼家が死去。 この年、関白に任じられていたが、任官三日後に発病したのだという。 関白の地位は、兄・道隆に譲られていたが、道隆は995年(長徳元年)4月10日に死去。 さらに、跡を継いだ兄・道兼も同年5月8日に死去。 道兼の死によって、弟の道長と道隆の嫡男伊周が対立するが・・・ 詮子が道長を強く推したこともあって、一条天皇は道長の内覧を許し、9月には右大臣に任じたことで、兄道隆の一家は没落。 道隆と関係が悪かった詮子は、伊周の異常な昇進に不満を持っていたのだという。 一条天皇の寝所にまで押しかけ、涙を流して道長を推したのだとか・・・ これにより、道長が氏の長者となっている。 翌年正月、伊周は長徳の変を起こし、さらに詮子を呪詛したなどの罪で左遷されている。 |
藤原兼家 |
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999年(長保元年)、道長の長女・彰子が一条天皇に入内。 翌年には皇后となった。 入内を推挙した詮子は、彰子の母・源倫子を入内に付き添わせるため、事前に従五位上から従三位に昇格させている。 |
土御門第跡(土御門殿)は、道長の邸宅。 この頃、詮子は土御門殿に同居させてもらっていたらしい。 |
999年(長保元年)の祇園御霊会で、雑芸者の無骨が大嘗祭で使われる標山に似せた作山を製作し、八坂社の社頭で引き回した。 道長は禁止令を出したが、祇園天神の怒りにあい、内裏が焼失してしまい、一条天皇は詮子の御在所(一条院)に遷御したのだと伝えられている。 現在の祇園祭の山鉾巡行は、無骨の作山が起源なのだとか。 |
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一条院は、詮子に献上された邸宅。 内裏焼失後、詮子は御所として修造し、崩御の時まで一条天皇の里内裏として使用された。 |
1000年(長保2年)12月16日、一条天皇の皇后宮・藤原定子が死去。 定子は、兄・道隆の長女。 中宮と呼ばれていたが、道長の長女・彰子が皇后となったことで皇后宮と呼ばれていた。 詮子は、定子が産んだ第二皇女・媄子内親王を養女としている。 1001年(長保3年)10月、四十賀が行われたが、同年閏12月22日、藤原行成の屋敷で崩御。 宇治陵に葬られた。 |
浄妙寺は、宇治木幡の宇治陵に藤原道長が建立した寺。 室町時代に廃絶し、道長や彰子の埋葬地も不明。 |
真如堂は、比叡山の戒算が、常行堂の阿弥陀如来を藤原詮子の離宮に安置したことに始まる寺。 阿弥陀如来は「うなずきの弥陀」と呼ばれている。 |
崩御の前年3月、詮子は石清水八幡宮を参詣。 そのまま、住吉大社と四天王寺を参詣している。 |
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