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元慶寺
花園天皇が出家した寺

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元慶寺


 元慶寺(がんけいじ・がんぎょうじ)は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。

 当初は華山寺と称されていたともいわれ、現在地の北西にあったのだという。

 877年(元慶元年)に陽成天皇の勅願寺となり、元号に因んで元慶寺と改めたとされる。

 986年( 寛和2年)6月23日、花山天皇がこの寺で出家(寛和の変)。

 そのため、花山寺とも呼ばれ、花山法皇が西国観音霊場三十三ヶ所の中興の祖とされることから番外札所となっている。

 応仁の乱の戦火で焼失し、現在の建物は安永年間(1772 - 1781年)の再建と伝わる。

 正式名は華頂山元慶寺。

 本尊の薬師瑠璃光如来(遍昭作)のほか、阿弥陀如来(慈覚大師作)・毘沙門天(運慶作)・十一面観音が祀られている。



元慶寺



~藤原高子~

 開基の藤原高子は、陽成天皇の生母。

 866年(貞観8年)に清和天皇に入内するが、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルともいわれる在原業平と恋愛関係があったという説がある。

 高子と大原野神社を参詣した業平は

 「大原や小塩の山もけふこそは 神代のことも思い出づらめ」

 と詠んだのだとか。



~遍昭~

 開山の遍昭は桓武天皇の孫で、出家後、延暦寺の座主を勤めた円仁・円珍に師事。

 元慶寺を開いた翌年、紫野の雲林院の別当を兼ね、885年(仁和元年)には僧正となり、花山僧正と呼ばれた。

 御詠歌の「待てといわばいともかしこし花山に しばしと啼かん鳥の音もがな」は遍昭が詠んだ歌。

 遍昭は、三十六歌仙の一人。

 三十六歌仙は、藤原公任の『三十六人撰』に載っている平安時代の和歌の名人36人のこと。



~五節の舞姫を見た遍昭~

 新嘗祭の豊明節会で五節の舞姫を見た遍昭が詠んだ歌。

リンクボタン遍昭僧正の歌 天女のように美しい舞姫










~寛和の変:花山天皇の出家~

 花山天皇は、984年(永観2年)に即位するが、翌年7月18日、寵愛していた女御の藤原忯子が死去すると、悲しみのあまりに出家を考えはじめる。

 花山天皇に信任されていた藤原義懐と権勢を争っていた藤原兼家は、この機に、次女の詮子が産んだ懐仁親王を皇位につけるため画策。

 蔵人として花山天皇に仕えていた三男・道兼に出家を勧めさせる。

 そして、986年( 寛和2年)6月23日、道兼に連れられて内裏を抜け出した花山天皇は元慶寺で出家したのだという(寛和の変)。



元慶寺

 この岩の下に花山天皇の剃髪が埋められたのだと伝えられている。



リンクボタン花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~

リンクボタン大鏡が伝える寛和の変~藤原道兼に騙された花山天皇~



~忯子は何故死んだ?~

リンクボタン藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~





~寛和の変の黒幕は藤原詮子という噂~


 元慶寺の隣接地には、藤原兼家の次女で円融天皇に入内した藤原詮子が建立した慈徳寺があったといわれている。

 1001年(長保3年)、詮子は慈徳寺を行啓。

 このとき、座主となったのが厳久。

 『扶桑略記』や『愚管抄』によると、寛和の変には厳久が大きく関わっていることから、寛和の変の真の黒幕は詮子という説がある。



リンクボタン寛和の変の黒幕は…懐仁親王の母・藤原詮子か?厳久とは?



華山寺
リンクボタン華山寺

 元慶寺の隣接地にある華山寺は、慈徳寺の旧跡といわれる。

 藤原実資の『小右記』によると、慈徳寺では999年(長保元年)に落慶供養が営まれている。

 詮子の弟・藤原道長の『御堂関白記』には、道長が工事を監督したことや、詮子の御幸の様子が記されている。





~端午節会の再開~

 花山天皇は、寵愛していた藤原忯子の死のショックの中、藤原兼家道兼父子の謀略により元慶寺で出家したとされている。

 ただ、長年行われていなかった端午節会を再開させる意欲があった・・・



リンクボタン競馬・騎射・打毬~花山天皇と円融上皇と王権誇示の馬術競技~





~寛和の変と紫式部の父藤原為時~

 紫式部の父藤原為時は、花山天皇に学問を教えていたが、寛和の変で花山天皇が退位すると長く出世が途絶えた。

 996年(長徳2年)、越前守に叙任されるまで官職のない状態が続いている。



リンクボタン花山天皇と藤原為時~師貞親王の教育係と藤原兼家・藤原道兼~










~観音霊場と花山法皇~

 西国観音霊場巡礼の開祖は、大和国長谷寺を開いた徳道。

 718年(養老2年)、病の徳道が生死をさまよっていると、閻魔大王が夢の中に現れ、悩める人々を救うよう告げられ、観音霊場三十三ヶ所の宝印を授けられた。

 しかし、人々に信じてもらうことが出来ず、仕方なく宝印を摂津国の中山寺石棺に納めたのだという。

 それから約270年後、花山法皇はその石棺を探し出し、三十三の観音霊場を巡礼。

 そのため、花山法皇は西国観音霊場三十三所の中興の祖と呼ばれている。

 西国三十三所の御詠歌は、花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだとか。



長谷寺
リンクボタン大和国長谷寺
法起院
リンクボタン法起院


 大和国長谷寺は、東大寺開山の良弁の弟子・徳道を開山とする観音霊場。

 法起院は長谷寺の塔頭で徳道を祀っている。


長谷観音の伝説



中山寺
リンクボタン中山寺
(宝塚市)
中山寺 石の櫃
リンクボタン石の櫃
(中山寺の石棺)


 中山寺源頼朝も信仰した我が国初の観音霊場。

 宝印が納められた石棺は白鳥塚古墳の石の櫃



花山院菩提寺
リンクボタン花山院菩提寺
花山法皇御廟
リンクボタン花山法皇廟


 花山院菩提寺花山法皇が隠棲した地で、境内には花山法皇の御廟がある。





~花山法皇の御所と陵墓~

花山院邸跡
リンクボタン花山院跡
花山天皇紙屋川上陵
リンクボタン花山天皇陵


 花山院は、出家した花山天皇が御所とした邸宅。

 花山院で崩御した花山法皇は法音寺の北に葬られたのだという(花山天皇紙屋川上陵)。





元慶寺鐘楼門
鐘楼門

 楼上の梵鐘には、菅原道真が詠んだ漢詩が刻まれている。

 現在の鐘は三代目。










元慶寺
元慶寺

京都市山科区北花山河原町13

御陵駅(京都市営地下鉄東西線・京阪京津線)から徒歩20分



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