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花山天皇(かざんてんのう)は、冷泉天皇の第一皇子。 母は摂政太政大臣・藤原伊尹の娘・懐子。 968年(安和元年)10月26日誕生。 諱は師貞(もろさだ)。 |
村上天皇 62代円融天皇 |
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誕生の翌年、父の冷泉天皇が弟の円融天皇に譲位すると皇太子となる。 984年(永観2年)、円融天皇の譲位によって即位。 関白には藤原頼忠が就任したが、外祖父・藤原伊尹の五男で外叔父の藤原義懐が実権を握ることに。 花山天皇は、義懐の正室の妹・藤原忯子(為光の娘)を女御として寵愛し、忯子は懐妊したが・・・ 985年( 寛和元年)、忯子が急死したことで、供養のため出家を考えるようになる。 そこへ動き出したのが、娘の藤原詮子が産んだ懐仁親王(一条天皇)を皇位につけたい藤原兼家。 花山天皇は、仕えていた兼家の三男・道兼に出家を勧められ、翌年、山科の元慶寺で出家してしまう(寛和の変)。 兼家の陰謀により、花山天皇の在位は僅か2年で終わり、一条天皇が誕生した。 兼家は摂政となり、皇太子には冷泉天皇の第二皇子・居貞親王(のちの三条天皇)が立てられた。 居貞親王の生母は、兼家の長女・超子。 出家した花山天皇は、播磨国の円教寺に入った後、比叡山に登り戒壇院で受戒し法皇となっている。 |
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元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。 |
花山天皇が寵愛した藤原忯子は、父の藤原為光が建立した法住寺に葬られた。 忯子の兄藤原斉信の娘も法住寺に葬られている。 |
晩年、花山法皇が隠棲した花山院菩提寺の麓には、藤原忯子と仕えていた11人の女官の十二妃の墓が建てられている。 |
996年(長徳2年)1月16日、藤原伊周と弟の隆家が花山法皇を射るという事件が起こった。 伊周が自分の思い人の三の君(寝殿の上)のところへ花山法皇が通っていると勘違いして起こった事件で、長徳の変と呼ばれる。 この事件を機に、藤原道長と政権を争っていた伊周は失脚。 伊周の母の高階貴子は、出立の車に取り付いて同行を願ったが許されず、間もなく病に伏し、10月に薨去。 懐妊中の中宮定子(伊周の妹)は里第二条宮に退出して出家している。 1008年(寛弘5年)2月8日、花山院で崩御(41歳)。 |
~三の君と四の君~ |
伊周の思い人の三の君は、藤原為光の娘。 伊周は花山法皇が四の君(藤原儼子)のところへ通っているのを三の君のところに通っていると勘違いしたのだという。 この二人は、出家前の花山法皇が寵愛していた藤原忯子の妹。 |
大和国長谷寺を開いた徳道が閻魔大王から授かった観音霊場三十三ヶ所の宝印を納めたとういう石棺を摂津国の中山寺で探し出し、三十三の観音霊場を巡礼。 西国三十三所の御詠歌は、花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだという。 |
![]() (宝塚市) |
![]() (中山寺の石棺) |
中山寺は源頼朝も信仰した我が国初の観音霊場。 宝印が納められた石棺は白鳥塚古墳の石の櫃。 |
大和国長谷寺は第8番札所。 「いくたびも まいる心は はつせでら 山も誓いも 深き谷川」 |
興福寺の南円堂は第9番札所。 「春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲」 |
三室戸寺は第10番札所。 「夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波」 |
石山寺は第13番札所。 「後の世を 願うこころは かろくとも ほとけの誓い おもき石山」 |
園城寺(三井寺)は第14番札所。 「いで入るや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖」 |
清水寺は第16番札所。 「松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は すずしかるらん」 |
六波羅蜜寺は第17番札所。 「重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば」 |
行願寺(革堂)は第19番札所。 「花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」 |
中山寺は第24番札所。 「野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後の世のため」 |
元慶寺は、花山法皇が出家した寺。 そのため番外寺院となっている。 |
花山院菩提寺は、花山法皇が隠棲した地。 そのため番外寺院となっている。 「有馬富士ふもとの霧は海に似て 波かときけば小野の松風」 |
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