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平安時代中期、冷泉系と円融系の2つが交互に皇位継承を行っている時期があった。 この両統迭立の状況は、冷泉天皇が即位する前から精神的な病気だったことに始まる。 |
村上天皇 62代天皇 |
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村上天皇は、第二皇子の憲平親王(のちの冷泉天皇)が生まれるとすぐに皇太子とするが、成長するにつれて憲平親王の精神状態は悪化していった。 967年(康保4年)、村上天皇が崩御すると、憲平親王が即位して冷泉天皇が誕生するが・・・ 病気であることから、在位は短期間と予測されたため、皇太子の人選を急ぐことになる。 ただ、この時、冷泉天皇には皇子が誕生していない。 そのため、弟の守平親王(のちの円融天皇)が皇太子に立てられることに。 この決定は、村上天皇の遺命だったともいわれている。 その後、冷泉天皇に皇子が誕生(師貞親王)。 そして、969年(安和2年)、冷泉天皇は11歳の守平親王に譲位し、円融天皇が誕生する。 しかし、冷泉天皇は譲位するに当たって師貞親王を皇太子とするよう命じていたことから、円融天皇は中継ぎの天皇とされた。 そのため、藤原伊尹や藤原兼家は娘を入内させることは考えていなかったのだというが・・・ 次第に外戚の地位をめぐる争いが激化。 972年(天禄3年)、円融天皇は元服するが、同年、摂政だった伊尹が薨去すると・・・ 弟の兼通と兼家の間で後継をめぐる争いが起こる。 円融天皇は生母・藤原安子の「関白は兄弟の順によるべし」との遺訓に従って兼通を関白に任じ、翌年、兼通の娘・媓子が入内して中宮となった。 977年(貞元2年)、兼通は従兄の藤原頼忠に関白を譲り、兼家を治部卿に左遷し、程なくして薨去。 同年、中宮・媓子が子女に恵まれないまま崩御すると、翌年、兼家は次女の詮子を入内させている。 984年(永観2年)、円融天皇は師貞親王に譲位して花山天皇が誕生。 皇太子には、詮子が生んだ懐仁親王(のちの一条天皇)が立てられた。 986年(寛和2年)、花山天皇の出家(寛和の変)に伴なって懐仁親王が即位して一条天皇が誕生。 しかし、7歳だった一条天皇に皇子がいるわけがなく、花山天皇にも皇子がいなかった。 そのため、冷泉天皇の皇子・居貞親王(花山天皇の弟、のちの三条天皇)が皇太子となり、両統迭立の状況となった。 参考までに、居貞親王の母は、兼家の長女・超子。 |
平安時代の即位の礼は、原則として平安宮朝堂院の大極殿で行われていた。 しかし、冷泉天皇は病気だったため内裏の紫宸殿で即位。 これが紫宸殿で即位の礼が行われた最初となった。 |
大極殿は1176年(安元2年)の焼失後、再建されなかったため、室町中期の後土御門天皇までは太政官庁を使用(安徳天皇は紫宸殿で即位)。 後柏原天皇以降は紫宸殿(京都御所)が使用され、昭和天皇まで続いた。 |
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