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敦明親王(あつあきらしんのう)は、三条天皇の第一皇子。 母は皇后・藤原娍子。 994年(正暦5年)5月9日誕生。 1010年(寛弘7年)頃、藤原顕光の娘・延子と結婚。 1016年(長和5年)、三条天皇が後一条天皇(敦成親王)に譲位すると、東宮(皇太子)には敦明親王が立てられることに。 しかし、藤原道長に皇太子が相伝する護り刀「壺切御剣」(つぼきりのみつるぎ)を渡されないなどの圧力が加えられ、翌年、三条上皇が崩御すると敦明親王は皇太子を辞退。 これにより、皇太子には、藤原彰子が産んだ一条天皇の第三皇子・敦良親王が立てられた。 その後、敦明親王は道長の計らいで上皇に準じた小一条院の尊号(准太上天皇)が贈られ、道長の三女・寛子を妃としている。 そして、敦明親王の皇太子辞退により、それまで冷泉系と円融系の2つが交互に皇位を継承するという両統迭立の状況に終止符が打たれている。 1038年(長暦2年)出家。 1051年(永承6年)正月8日薨去(享年58)。 |
※ | 世間では、敦明親王は藤原兼隆に騙されて皇太子を辞退したという噂が流れたのだという。 |
皇后宮娍子の立后と中宮妍子の参内~三条天皇と藤原道長の対立~ 紫式部の没年と源氏物語~准太上天皇となった光源氏と敦明親王~ 三条天皇の歌~夜半の月・百人一首収録歌~ |
堀河院(堀河殿)は、藤原顕光が伝領した邸宅。 顕光の娘・延子を妃とした敦明親王は堀河殿で暮していたが、道長の娘・寛子を妃とすると高松殿に移ってしまう。 悲しんだ延子は病となり、1019年(寛仁3年)に死去。 父の顕光も1021年(治安元年)に病死。 延子と顕光の死後、藤原道長の娘の寛子・嬉子・妍子が続けて死去するが・・・ 延子と顕光の怨霊が現れたとも伝えられる。 |
藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち |
高松神明神社は高松殿の鎮守。 藤原道長と結婚した源高明の娘明子は、ここに住んで高松殿と呼ばれた。 道長の娘で敦明親王の妃となった寛子は、高松殿女御と呼ばれている。 |
敦明親王の側近として重用されていたという河内源氏の二代棟梁・源頼義。 嫡男の義家が誕生すると、敦明親王は義家の顔が見たいと所望。 頼義は新調した鎧の袖に赤子の義家を座らせて拝謁したのだとか。 この鎧が、のちに源頼朝が平治の乱で着用することとなる「源太が産衣」なのだという。 |
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