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藤原娍子(ふじわらのせいし・すけこ)は、贈右大臣・藤原済時の娘。 母は源延光の娘。 972年(天禄3年)誕生。 |
991年(正暦2年)、一条天皇の皇太子・居貞親王(のちの三条天皇)に入内。 美貌だったという娍子は、当初、居貞親王の異母兄・花山天皇に入内を請われていたが、父の済時が固辞したのだという。 |
※ | 皇太子時代の三条天皇には、兼家の娘・綏子や道隆の娘・原子も入内したが早世している。 |
1010年(寛弘7年)、藤原道長の娘・妍子が居貞親王に入内。 1011年(寛弘8年)、居貞親王が即位して三条天皇が誕生すると、翌年、道長は妍子を中宮とする。 これに対し、道長と仲が悪かったという三条天皇は、娍子を皇后宮とした。 立后の儀式の日・・・ 道長は「同日は中宮妍子の参内の日である」として出席せず、多くの公卿が道長に従って妍子の御所となっていた東三条殿に行ってしまったのだという。 道長の嫌がらせによって、儀式に参列したのは、娍子の弟・藤原通任と藤原実資・藤原隆家・藤原懐平の公卿のみだったのだとか。 1016年(長和5年)、三条天皇が譲位し、後一条天皇が即位。 娍子が産んだ敦明親王が後一条天皇の皇太子となるが・・・ 翌年、三条天皇が崩御すると、敦明親王は道長の圧力を受けて皇太子を辞退している。 1018年(寛仁2年)に出家した娍子は、1025年(万寿2年)3月25日、崩御(享年54)。 宇治陵に葬られた。 |
東三条殿は、摂関家の邸宅で、妍子の御所としても使用された。 |
娍子が産んだ当子内親王は、伊勢神宮に仕える斎宮(斎王)となっている。 三条天皇の譲位により斎宮を退いた後は、藤原道雅との密通が明かとなり出家。 1022年(治安2年)9月12日、23歳で薨去した。 野宮神社は、斎宮が伊勢神宮に赴く前に心身を清めた「野宮」があった地に鎮座。 紫式部の『源氏物語』~賢木の巻~にも描かれた。 |
斎宮邸は、斎王(斎宮)の居所で、西京高校がその跡地の一つとされている。 |
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