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浄妙寺(じょうみょうじ)は、藤原道長が藤原北家の人々が葬られた宇治木幡(宇治陵)に建立した寺院。 1007年(寛弘4年)に完成した寺には、三昧堂と多宝塔が建てられ、木幡寺とも呼ばれていたのだという。 1027年(万寿4年)12月4日、法成寺で死去した道長は、鳥辺野で火葬され、宇治陵に葬られた。 嫡男の頼通は、1074年(延久6年)2月22日、平等院で薨去し、近辺で火葬された後、宇治陵に葬られたものと考えられている。 同年10月3日に崩御した一条天皇の中宮・藤原彰子(道長の娘)も宇治陵に埋葬されている。 ただ、浄妙寺は室町時代に廃絶し、道長らの埋葬地も現在では不明となっている。 |
宇治市立木幡小学校正門には、浄妙寺跡の碑が建てられている。 発掘調査では三昧堂が発見され、遺跡全体は校庭地下に保存されている。 |
宇治陵は、関白・藤原基経が定めた藤原北家一門の埋骨地。 1877年(明治10年)の宮内庁の調査により、17陵3墓が木幡陵と定められ、1894年(明治27年)には37ヶ所の陵墓も加えられ宇治陵とされた。 |
宇治陵総拝所には、藤原氏塋域の碑が建てられている。 塋域(えいいき)は、家代々の墓地のこと。 碑には、冬嗣・基経・時平・兼家・道隆・道長・頼通・師実の名が刻まれている。 その他、宇治陵に葬られた主な人物は、 冷泉天皇の女御・藤原超子 円融天皇の中宮・藤原媓子 円融天皇の中宮・藤原遵子 花山天皇の生母・藤原懐子 一条天皇の生母・藤原詮子 一条天皇の中宮・藤原彰子 三条天皇の皇后・藤原娍子 三条天皇の中宮・藤原妍子 後一条天皇の中宮・藤原威子 後朱雀天皇の女御・藤原嬉子 など。 |
鳥戸野陵は、一条天皇の皇后・藤原定子の陵墓。 藤原道長を可愛がっていた姉の藤原詮子は、鳥戸野陵で荼毘に付され、宇治陵に葬られた。 |
藤原詮子の晩年 ~平惟仲邸が御所・藤原行成邸で崩御~ |
許波多神社の宇治陵36号墳は、藤原基経の墳墓とされている。 |
藤原頼通に仕えた平定家の日記には、道長の墓は浄妙寺の東にあったのだという。 これが正しいとすると、現在の宇治市立木幡小学校の周辺にあったことになる。 小学校の東側の茶畑から出土した青磁水注は、道長の骨壺という説もあるらしい。 宇治陵32号墳が道長の墓という説がある。 |
藤原道長の出家と最期 藤原兼家の葬送 |
勧修は、比叡山で学び、道長の姉詮子が建立した解脱寺に住持。 園城寺の長官を務め、道長が藤原氏の陵墓・宇治陵に建立した浄妙寺の開山となった。 伝説によると・・・ 道長のところに届けられた瓜の中に、安倍晴明が毒がある占うと、祈祷をしてその瓜を特定したのだという。 |
瓜に毒があることを占った安倍晴明~古今著聞集~ |
宇治市木幡赤塚4 |
宇治市木幡南山畑34−1 |
宇治市木幡東中48 |
宇治市木幡檜尾25−2 |
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