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~出家~ |
1019年(寛仁3年)3月、藤原道長は、自邸の土御門殿で出家。 前月に眼病が重くなり、胸病の発作に襲われるようになっていた。 戒師は、比叡山の院源。 法名は行願(のちに行覚)。 見舞いに訪れた藤原実資は「容顔老僧の如し」と伝えている。 太皇太后・彰子、皇太后・妍子、中宮・威子、嫡男・頼通らも見舞っている。 |
土御門殿は、現在の京都御所の東側にあった道長の邸宅。 |
~法成寺建立~ |
9月には東大寺で改めて受戒し、興福寺・春日社をはじめとする大和国の寺社を参詣。 翌年、浄土往生を願って土御門殿の東側に建立を開始した九体阿弥陀堂(無量寿院)が完成。 さらに、金堂・五大堂・正妻・源倫子の願による西北院などが次々に建立され、摂関時代の最大の寺院として豪壮を極め、1022年(治安2年)、寺号を法成寺とする。 |
平安時代、浄土信仰の広まりで阿弥陀堂の建立が盛んに行われた。 その始まりは慈覚大師(円仁)が延暦寺に建立した常行堂。 道長が帰依した源信が修行をした横川の恵心堂は、浄土信仰発祥の地といわれる。 貴族階級が競うように阿弥陀堂を建立した中で、道長の法成寺は最大規模のものだった。 |
道長の子頼通が建立した宇治の平等院は、法成寺を参考にしたのだという。 鳳凰堂の阿弥陀如来は、法成寺の造仏を手掛けた定朝の作で、確認されている唯一の遺作。 |
三千院の阿弥陀堂は、恵心僧都源信が父母の菩提のため、姉の安養尼とともに建立したと伝えられている。 |
中尊寺の金色堂は、藤原清衡が1124年(天治元年)に創建した阿弥陀堂。 |
~最期~ |
晩年を法成寺で暮らしていた道長は・・・ 1025年(万寿2年)に三女の寛子・六女の嬉子を失い、1027年(万寿4年)には三男の顕信と次女の妍子を失った。 そして・・・ 1027年(万寿4年)10月28日、妍子の四十九日法要が営まれた夜から床に伏した。 病状は日ごとに悪化。 11月25日には阿弥陀堂に移り、12月2日には医師の但波忠明が呼ばれたが、翌日には重態となる。 12月4日、九体の阿弥陀仏の手に糸を通し、中尊仏から道長の手に渡され、多くの僧たちの読経の中で薨去(62歳)。 |
道長は、晩年を法成寺で暮らしたことから「御堂殿」と呼ばれ、のちに「御堂関白」と称されたが、関白にはなっていない。 |
関白にならなかった御堂関白・藤原道長~内覧と摂政と関白~ |
12月4日、道長の遺体は棺に移され、陰陽師の占いによって7日夜に法成寺から鳥辺野に移され、葬送の儀が行われた。 導師は天台座主の院源。 東大寺・興福寺・東寺・西寺・四天王寺などの大寺の僧が来集している。 儀式が終わると荼毘に付され、遺骨は翌朝に木幡の宇治陵に送られて埋葬された。 浄妙寺は、宇治陵に藤原道長が建立した寺。 室町時代に廃絶し、道長の埋葬地も不明となっている。 |
1007年(寛弘4年)8月11日、金峯山詣を行った藤原道長は、自ら書写した法華経などを金峯山(山上の蔵王堂)に埋納。 金峯神社蔵の「金銅藤原道長経筒」の願文によると・・・ 極楽往生を願い、未来に弥勒菩薩が現われた時には、成仏の確約を受けることを願っていたらしい。 |
金銅藤原道長経筒~御嶽詣と弥勒信仰と道長の願文~ |
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