奈良・京都

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京都:東寺
(教王護国寺)

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東寺(教王護国寺)


 東寺は、真言宗の根本道場。

 「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれ、東寺真言宗の総本山。

 本尊は薬師如来。

 東寺は、桓武天皇による平安遷都後の796年(延暦15年)、西寺とともに平安京の南の玄関口にあたる羅城門を挟んで左右対称に配置され、東西を守る王城鎮護の官寺として創建された。

 そして、823年(弘仁14年)、嵯峨天皇のときに唐で密教を学んで帰国した弘法大師(空海)に託され、我が国初の密教寺院(真言密教)となった。

 度重なる火災によって創建当時の建物は残されていないが、南大門金堂講堂食堂(じきどう)が南から北へ一直線に並ぶ伽藍配置は平安時代からのもの。



金剛峯寺根本大塔
リンクボタン金剛峯寺
(高野山)

 金剛峯寺は、東寺とともに弘法大師(空海)が高野山に開いた道場。





〜平安京の正門と東寺・西寺〜

羅城門
リンクボタン羅城門

 羅城門は都の正門。

 朱雀大路の南端に建てられ、羅城門の東西に王城鎮護の寺として東寺と西寺が置かれていた。

 羅城門跡には地蔵堂があって、弘法大師(空海)の身代わりとなったという地蔵尊が安置されている。



平安宮
リンクボタン平安宮
(大内裏)
平安神宮
リンクボタン平安神宮


 平安宮は、平安京の宮城。

 平安神宮は、1895年(明治28年)に、平安遷都1100年を記念して平安京大内裏の正庁朝堂院が8分の5の規模で復元されたもの。









仏法僧を表す東寺の伽藍配置・・・

 金堂は本尊を安置する「仏」、講堂は密教の教え「法」、そして、生活の中に修行を見いだす所である食堂は「僧」。


境内の建築物・施設等
東寺(教皇護国寺)
リンクボタン東寺の境内をご案内。





〜源頼朝・文覚と東寺〜

 平安末期からの源平の戦いで、王城鎮護の東寺と西寺は衰退の途を辿るが、東寺は源頼朝の外護を受け、後白河法皇の意を得た文覚が再興に努力した。

 文覚の依頼を受けた運慶が諸像の修復に着手したという。

 1191年(建久2年)、源頼朝文覚の要請を受け、南大門に銭十万疋を寄進している。

 1192年(建久3年)に後白河法皇が崩御すると、源頼朝は法皇の追善のために、文覚に東寺再興を継続させた。

 こうして1197年(建久8年)までには、講堂の仏像が整えられ、鎮守八幡宮が再建されたという。

 源頼朝の死後は文覚も失脚し、修造は中断されたが、1233年(天福元年)には、運慶の子康勝によって弘法大師坐像が製作されている(御影堂に安置)。

 一方、西寺は、建久年間に五重塔の修理を行ったというが、その塔も1233年(天福元年)に焼失して廃絶したという。





〜鎌倉:鶴岡八幡宮の別当〜

 源頼朝は、鶴岡八幡宮の初代別当に園城寺の円暁を任命した。

 鶴岡八幡宮の社務職次第によれば、「母は六条判官為義の女」とあることから、頼朝の従兄弟ということになる。

 その後、尊暁・帝暁・公暁源頼家の子)・慶幸と園城寺関係者から登用されたが、六代目の定豪からは東寺系の別当も就任するようなり、十九代頼仲以降は東寺系で占められるようになった。





〜承久の乱〜

 1221年(承久3年)の承久の乱で、朝廷軍の三浦胤義が籠って幕府軍と戦っている。

 中世の東寺は城郭化され、現在でも南大門北大門の外側には堀の一部が残されている。

 南北朝時代には足利尊氏が陣を敷いた。


承久の乱





〜永仁の徳政令〜
(世界記憶遺産「東寺百合文書」)

 1297年(永仁5年)3月6日、九代執権北条貞時が発した「永仁の徳政令」は、わが国最初の「徳政令」といわれ、宝蔵に収蔵されていた「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ・国宝)の中にその条文が伝えられている(京都府立総合資料館保管)。


リンクボタン永仁の徳政令


永仁の徳政令と世界記憶遺産・東寺百合文書(okadoのブログ)





〜鳥羽伏見の戦い〜

 1868年(慶応4年)1月3日、薩摩・長州両藩兵ら4500の新政府軍は、大坂城から京都へ向けて北上する旧幕府軍15000の軍勢を退却させた。

 翌日には、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命され、東寺には本営が置かれている。



城南宮
リンクボタン城南宮
仁和寺
リンクボタン仁和寺


 鳥羽伏見の戦いは、城南宮の参道に置かれた薩摩藩の大砲が轟いて始まったのだという。

 嘉彰親王は仁和寺第三十世門跡。

 1867年(慶応3年)、還俗を命ぜられ、仁和寺宮嘉彰親王と名乗った。

 のちに小松宮に改称し、名も彰仁と改めている。



錦の御旗





石上神社 波切不動尊
リンクボタン石上神社と波切不動尊

 東寺の執行職は、弘法大師(空海)の母方の実家である阿刀家が世襲した。

 この石上神社と波切不動尊は、東寺の北方の住宅街の中にあって、阿刀家の屋敷跡だという。



霊石不動
リンクボタン鬼門に置かれた霊石不動









神泉苑
リンクボタン神泉苑

 平安京の大内裏に接して造営されたという神泉苑

 雨乞いの霊場として多くの祈祷が行われた。

 神泉苑の法成池の畔では、東寺弘法大師(空海)と西寺の守敏僧都が法力争いをして、弘法大師(空海)が勝ったという伝説が残されている。





伏見稲荷大社
リンクボタン伏見稲荷大社

 東寺の五重塔は、その用材を伏見の稲荷山から伐りだした。

 そのため淳和天皇が病気になったと伝えられ、朝廷は謝罪として伏見稲荷大社に従五位の下を稲荷神に授けたのだという。

 以後、伏見稲荷大社と東寺は深く結びついてきた。

 今でも5月3日の伏見稲荷大社の「還幸祭」では東寺の僧による神供が行われている。



伏見稲荷大社御旅所
リンクボタン伏見稲荷大社御旅所

 4月から5月の稲荷祭で五基の神輿が駐輿(おとどまり)される地。

 伏見稲荷大社御旅所は東寺通にある。





都七福神
リンクボタン都七福神


 毘沙門堂の兜跋毘沙門天は、日本最古という「都七福神」の一つ。

 他の神は、ゑびす神(ゑびす神社)、大黒天(松ヶ崎大黒天)、弁財天(六波羅蜜寺)、福禄寿(赤山禅院)、寿老神(革堂)、布袋尊(萬福寺








歴史めぐり源頼朝




東寺(教王護国寺)
東寺(教王護国寺)

京都市南区九条町1

JR京都駅八条口から徒歩15分
近鉄「近鉄東寺駅」下車徒歩10分



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