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源頼朝と伊豆で出会い、頼朝の歴史に度々登場する文覚。 鎌倉の屋敷は、頼朝の御所の南、大御堂(勝長寿院)の西にあったのだという。 文覚は、もとは武士で遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた。 しかし、19歳のときに突然出家。 その理由は、源渡の妻袈裟御前に懸想し、誤って袈裟御前を殺してしまったからなのだという。 |
文覚は、同僚の源渡(渡辺渡)の妻袈裟御前に恋をしてしまう。 袈裟御前の「夫を亡きものとしてくれたら・・・」という言葉に、渡を殺すため夜中屋敷に忍び込むが、誤って袈裟御前を殺してしまった。 袈裟御前は、わざと夫のいるはずの寝所にいて文覚に殺される決断をしたのだという。 文覚と夫との板挟みの中、他に方法が見つからなかったのかもしれない。 その後、文覚は真言宗の僧となる。 |
源渡(渡部渡)は、源頼光の四天王の一人で一条戻橋の伝説でも知られる渡辺綱を祖とする渡辺党の武将。 文覚も渡辺党の武将だった。 |
遠藤盛遠(文覚)と袈裟御前(okadoのブログ) |
僧となった文覚は、後白河法皇に神護寺再興を強訴したことで法皇の怒りをかい、伊豆国の奈古谷に流された。 そのときに、蛭ヶ小島に流されていた源頼朝と出会い、源氏再興の挙兵を促したともいわれている。 参考までに、当時の伊豆守は、源頼光の末裔の源仲綱(源頼政の子)だったとされている。 |
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![]() (伊豆の国市) |
毘沙門堂は、頼朝と文覚ゆかりの堂。 滝山不動明王は、頼朝が祈願したことから旗上不動とも呼ばれている。 |
高源寺は、頼朝と文覚が密談したという寺。 |
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文覚は、1182年(養和2年)、源頼朝の命を受けて、奥州平泉の藤原秀衡調伏祈願のため、江ノ島に弁財天を勧請した。 |
1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として創建された補陀洛寺は、文覚が開山と伝えられる。 |
江ノ島と源頼朝と弁財天(okadoのブログ) |
源頼朝が鎌倉に武家の都を創ると、その力を借りて神護寺再興に尽力。 平清盛の嫡流六代御前の助命嘆願でも知られている(参考:六代御前の墓)。 頼朝亡き後の1205年(元久2年)、後鳥羽上皇への謀反の疑いで対馬に流される途中で死んだ。 弟子の上覚が残した記録によると、文覚終焉の地は鎮西であったという。 |
六代御前の墓〜盛者必衰の歴史〜(okadoのブログ) |
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![]() (京都) |
鎌倉の中心を流れる滑川は、六つの名を持つことで知られている。 文覚の屋敷前を流れる滑川は、「坐禅川」と呼ばれていた。 |
鎌倉市雪ノ下4-4-32 金沢街道・大御堂の交差点近く |
「田楽辻子のみち」は、滑川に架かる大御堂橋の文覚上人屋敷跡から報国寺へ至る道。 |
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