鎌倉手帳(寺社散策)

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奥 州 平 泉
〜藤原氏の栄華〜

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平泉


 奥州藤原氏は、清衡・基衡・秀衡の三代、約100年にわたって栄華を極めます。

 初代清衡は、前九年、後三年の役で犠牲となった者の霊を敵味方なくなぐさめ、仏の教えによる平和な理想社会である「仏国土」を実現するため中尊寺を建立しました。

 清衡の遺志を引き継いだ二代基衡は、毛越寺の造営に着手、三代秀衡のときに完成しています。

 基衡の妻は観自在王院を創建しました。

 秀衡の代になると、政庁の平泉館が整備され、無量光院が創建されます。

 また、秀衡は、源頼朝から追われ平泉に逃げ込んだ源義経を庇護しました。

 しかし、秀衡の死後、四代泰衡は、頼朝の圧力に屈し、衣川館義経を襲撃して自刃に追い込みます(1189年(文治5年)閏4月30日)。

 間もなく、平泉は頼朝に攻められ、泰衡は平泉館を焼いて北方へと逃れますが、9月3日、家臣の裏切によって殺害されてしまいます(奥州藤原氏の滅亡)。

 藤原氏四代の遺骸は、中尊寺金色堂に納められています。



初代清衡
中尊寺金色堂
リンクボタン中尊寺


二代基衡
毛越寺
リンクボタン毛越寺


二代基衡の妻
観自在王院跡・舞鶴が池
リンクボタン観自在王院跡


三代秀衡
無量光院跡
リンクボタン無量光院跡



奥州征伐









〜『吾妻鏡』が伝える奥州藤原氏三代〜

 1189年(文治5年)9月23日、平泉館を焼き払い北方へ逃げた泰衡を追って厨川にいた源頼朝は、平泉に戻ると無量光院を訪れています。

 『吾妻鏡』によると、案内人の清原実俊は奥州藤原氏三代について、以下のように説明したようです。

 清衡は、継父・清原武貞(鎮守府将軍の清原武則の子)亡き後、奥六郡(伊澤、和賀、江刺、稗貫、志波、岩井)を伝領し、嘉保年中(1094−1095)頃に江刺郡豊田館を平泉に移して宿館とし、三十三年後に亡くなりました。

 陸奥と出羽の両国には、一万余の村があり、村ごとに寺院を建て、その燈明用の油代のための水田を寄付しました。

 基衡は、父を超える財福となって両国を官領し、三十三年後に亡くなりました。

 秀衡は、絶えすたれた寺院を再興しました。

 鎮守府将軍となってからは、官職も父や祖父を越えて、その栄耀は子弟にも及びました。
 三十三年を経て亡くなりました。

 この99年間に、建築された寺院や堂塔は、幾千万か数え切れません。



柳之御所遺跡
リンクボタン柳之御所遺跡

 柳之御所は、三代秀衡のときに奥州平泉の政庁として整備されました(平泉館)。

 秀衡は、無量光院の東門の一郭を屋敷としていたようです(伽羅御所)。





〜源義経と妻子終焉の地〜

高館義経堂
リンクボタン衣川館
(高館義経堂)

 源平合戦の英雄源義経が自刃した地。


平泉・金鶏山
リンクボタン義経妻子の墓

 数々の伝説が残された信仰の山・金鶏山の麓には、義経の妻郷御前と子の墓が建てられています。





〜源氏ゆかりの堂〜

達谷窟毘沙門堂
リンクボタン達谷窟毘沙門堂

 達谷窟毘沙門堂は、奥州征伐の帰路、源頼朝が参詣したという堂。



源義経

源義経伝説をめぐる鎌倉





〜鎌倉市に寄贈された中尊寺ハス〜

中尊寺ハス
リンクボタン中尊寺ハス
(鎌倉:永福寺跡)

 2019年(平成31年)4月に平泉町から鎌倉市に寄贈された中尊寺ハス

 源頼朝中尊寺毛越寺無量光院を模して建てたと伝えられる永福寺の跡に置かれている。





〜奥州藤原氏が崇敬した鹽竈神社〜


鹽竈神社
リンクボタン鹽竈神社
(塩竃市)
文治の燈籠
リンクボタン文治の燈籠
(鹽竈神社)


 鹽竈神社は奥州藤原氏が崇敬した陸奥国一宮。

 文治の燈籠は、源義経を庇護した藤原秀衡の三男・忠衡が寄進したもの。

 「おくのほそ道」で鹽竈神社を参拝した松尾芭蕉は、忠衡を「勇義忠孝の士」を讃えている。



松尾芭蕉のおくのほそ道〜奥州平泉〜









源義経とあさひ天女

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奥州藤原氏の栄華と
源頼朝・源義経をめぐる平泉

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