|
金鶏山は、浄土思想に基づいて完成された政治・行政上の拠点である平泉の空間設計の基準となった信仰の山(標高98.6m)。 「金鶏山」(きんけいさん)の名称は、山頂に雄雌一対の金の鶏を埋めたことにちなむと伝わる。 山頂には経塚が設けられていた。 奥州を訪れた松尾芭蕉は『奥の細尾道』のなかで、「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す」と記した。 「平泉〜仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群〜」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。 |
金鶏山の麓には、藤原三代の位牌、秀衡の木像などが安置されている千手堂がある。 |
千手堂の傍らには、源義経の妻・郷御前と子の墓と伝わる五輪塔が建てられています。 |
義経の正妻・郷御前 (さとごぜん) |
郷御前は河越重頼の娘。 母は源頼朝の乳母・比企尼の次女。 1184年(元暦元年)、源義経と結婚。 1185年(文治元年)に義経が頼朝と対立した後も、義経の逃亡生活に従い、藤原秀衡を頼って平泉に赴いた。 義経が都落ちした頃の郷御前の行動は不明だが、1186年(文治2年)に懐妊していると考えられることから、義経とともに京近辺に身を潜めていたものと考えられている。 1189年(文治5年)閏4月30日、藤原泰衡に衣川館を襲撃され、義経と娘とともに最期を遂げた。 平泉では「北の方」と呼ばれていたという。 |
『吾妻鏡』の記録では・・・ 義経が奥州に下った際、郷御前と息子と娘を連れていた。 郷御前と娘は義経とともに最期を遂げたが、息子はどうなったのか・・・ 一説によると、息子の名は経若といい、常陸入道念西に預けられていたのだという。 念西は、伊達氏の初代当主・伊達朝宗のことと考えられ、経若を養子としたという伝承があるようだ。 そして、この経若が後に下野国にあった中村城の城主となった中村朝定なのだとか。 参考までに、義経と郷御前の終焉の地に建てられた高館義経堂は、伊達氏二十代当主の伊達綱村によって建てられたもの。 |
郷御前の父河越重頼の居館だった河越館跡の一角にある常楽寺には、2006年(平成18年)に重頼・郷御前・義経の供養塔が建てられた。 重頼は、頼朝と対立した義経が京を落ちて行方をくらませると、舅という理由で誅殺されている。 |
岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立地内 JR平泉駅から徒歩10分程度 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|