鎌倉手帳(寺社散策)

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松尾芭蕉のおくのほそ道〜奥州平泉〜

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松尾芭蕉


 1689年(元禄2年)3月27日、江戸を発った松尾芭蕉は、5月13日、平泉に到着します。

 そして、源義経の最期の地となった高館(衣川館跡)と中尊寺を訪れます。





 三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。

 秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。



無量光院跡
リンクボタン無量光院跡

 無量光院は、奥州藤原氏3代目の秀衡が建立した寺院。





 まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。

 衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。

 泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。

 さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。

 国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。



高館義経堂
リンクボタン高館義経堂

 高館(たかだち)は、源義経が自刃した所。

 芭蕉はここで「夏草や 兵共が 夢の跡」と詠んだのだという。



卯の花清水
卯の花清水

 高館義経堂の下にある清水は、芭蕉の門人・曾良が「卯の花に兼房みゆる白毛かな」と詠んだことから「卯の花清水」と名付けられた。

 『義経記』によると、兼房は義経の忠臣。

 最後まで奮戦した白髪の老臣だったという。





 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。

 経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。

 七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、 四面新たに囲みて、甍を覆うて風雨をしのぐ。

 しばらく千歳の記念とはなれり。



中尊寺金色堂
リンクボタン中尊寺金色堂

 高館に続いて芭蕉が訪れたの中尊寺

 金色堂は朽ち果てていましたが、わずかな光を芭蕉に投げかけます。

 その時に詠んだ句が「五月雨の降り残してや光堂」。





「夏草や 兵共が 夢の跡」


高館義経堂・芭蕉句碑
リンクボタン高館義経堂句碑



平泉毛越寺
リンクボタン毛越寺句碑



平泉毛越寺
リンクボタン毛越寺の英訳句碑

 The summer grass
 ‘Tis all that's left
 of ancient warriors dreams.




鹽竈神社
リンクボタン鹽竈神社
(塩竃市)
文治の燈籠
リンクボタン文治の燈籠
(鹽竈神社)


 鹽竈神社は奥州藤原氏が崇敬した陸奥国一宮。

 文治の燈籠は、源義経を庇護した藤原秀衡の三男・忠衡が寄進したもの。

 「おくのほそ道」で鹽竈神社を参拝した松尾芭蕉は、忠衡を「勇義忠孝の士」を讃えている。

 その後、平泉で詠んだのが「夏草や 兵共が 夢の跡」。





松尾芭蕉の墓
リンクボタン松尾芭蕉の墓
(大津市:義仲寺)

 1694年(元禄7年)に亡くなった芭蕉は、遺言により近江国義仲寺木曽義仲の墓の隣に葬られた。










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