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大坂城(おおさかじょう)は、1583年(天正11年)から羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築き始め、1598年(慶長3年)に完成した城。 ただ、秀吉が築いた遺構は埋没してしまい、現在見ることのできる遺構は徳川時代のものなのだという。 |
大坂城の地は、戦国期に本願寺(石山本願寺)があった地で、1580年(天正8年)に織田信長に明け渡されると、信長は城を築く計画でいたのだという。 しかし、1582年(天正10年)、信長は明智光秀の謀反により本能寺で自刃(本能寺の変)。 その後、秀吉が領有することとなる。 大坂城を本拠とした秀吉は、1585年(天正13年)に近衛前久の猶子となって関白に就任。 翌年には豊臣の姓を賜り、さらに太政大臣に就任して豊臣政権を確立させている。 1598年(慶長3年)、秀吉が伏見城で死去。 1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いで石田三成が徳川家康に敗れたことで、豊臣家は65万石の一大名に転落。 秀吉の後継者・秀頼は大坂城に居住していたが、1614年(慶長19年)、家康は方広寺の鐘銘事件をきっかけに大坂冬の陣を起こす。 翌年の大坂夏の陣で大坂城は落城し、秀頼は母の淀殿とともに自害して豊臣家が滅亡した。 その後、家康の外孫・松平忠明が入城。 1620年(元和6年)からは、徳川秀忠が秀吉の大坂城の上に土盛りをして新たな城を築き始め、1629年(寛永6年)には徳川の大坂城を完成させ、大坂城代が置かれた。 大天守は5層5階だったというが、1665年(寛文5年)の落雷で焼失。 現在の建物は1931年(昭和6年)に復興されたもの。 |
※ | 明治以降は「大阪城」と表記するらしい。 |
本願寺 (西本願寺) |
真宗本廟 (東本願寺) |
本願寺は、1591年(天正19年)、十一世の顕如が豊臣秀吉より京都堀川六条に寺地を寄進され、大坂天満より移転。 1602年(慶長7年)、徳川家康が顕如の長男・教如に烏丸七条に寺地を寄進したことで真宗本廟が創立され分立している。 |
豊臣政権下での大坂城の外郭(総構)は周囲約8qの長さで、大坂冬の陣では外郭南門の外側に出丸(真田丸)が築かれた。 そのため、徳川方は外郭内に侵入できなかったといわれている。 参考までに、小田原北条氏の小田原城の総構は約9q。 徳川家康の江戸城の総構は約16q。 |
豊國神社(ほうこくじんじゃ)は、1879年(明治13年)、明治天皇の決定に基づき創建された神社。 祭神は、豊臣秀吉・秀頼父子と秀吉の弟豊臣秀長。 |
玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)は、垂仁天皇の時代に創建されたという古社で、主祭神は宇迦之御魂大神。 大坂城の三の丸に位置する。 |
豊臣秀頼は荒廃していた社殿を再建したのだという。 |
三の丸の跡地から発掘された豊臣秀頼の首と思われる頭蓋骨は、清凉寺に埋葬されている。 |
三光神社(さんこうじんじゃ)は、反正天皇の時代に創建されたという古社で、主祭神は天照大神・月読尊・素戔嗚尊。 |
この神社の一帯には、大坂の陣で真田幸村が築いた真田丸があったた。 |
大坂夏の陣で豊臣秀頼は自刃したが、秀頼の正室だった千姫(家康の孫)は家康の命により救出された。 |
秀頼の娘で側室が産んだ奈阿姫は、千姫が養女とすることで救われ、鎌倉の東慶寺に入り、天秀尼と号して東慶寺二十世となっている。 |
1867年(慶応3年)、二条城で大政奉還した十五代将軍徳川慶喜だったが・・・ 翌年には鳥羽・伏見の戦いが勃発し、大坂城に入った慶喜は15000の兵を京都に向けて出陣させるが敗北。 この年、江戸城が無血開城している。 |
大阪市中央区大阪城1−1 JR大阪環状線 「森ノ宮駅」「大阪城公園駅」 京阪電車 「天満橋駅」 |
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