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二条城(にじょうじょう)は、1602年(慶長7年)5月1日に徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として築城を開始。 翌年、伏見城で征夷大将軍補任の宣旨を受けた家康は、完成したばかりの二条城に入城し、将軍就任の祝賀の儀が行われたのだという。 二代秀忠、三代家光の将軍就任の際にも祝賀の儀が催されている。 1611年(慶長16年)、家康は駿府城から上洛し、豊臣秀頼と会見(二条城会見)。 何事もなく終わり、人々は天下泰平を祝ったのだが・・・ 1614年(慶長19年)、方広寺の梵鐘銘文事件がきっかけとなったという大坂冬の陣が勃発。 家康が二条城から、秀忠が伏見城から出陣。 翌年の大坂夏の陣で大坂城が落城し、秀頼が母の淀殿らとともに自害したことで豊臣氏は滅亡している。 1619年(元和5年)、秀忠は、娘・和子が後水尾天皇に入内するため二条城を改修。 1624年(寛永元年)には家光が大改築を始め、1626年(寛永3年)には後水尾天皇が行幸している。 1634年(寛永11年)に家光が入城して以降は、しばらく将軍が入城することはなく幕末を迎えることに。 1866年(慶応2年)、反幕運動が激しくなる中、二条城で慶喜が十五代将軍の宣旨を受けるが・・・ 翌1867年(慶応3年)10月13日、慶喜は二条城の二の丸御殿の大広間に重臣を集め、朝廷に政権を返上する意向を伝え、翌日、明治天皇に奏上(大政奉還)、将軍職を辞した。 その後、幕府は江戸城を無血開城している。 明治時代となって二条離宮(皇室の別邸)となった二条城は、1939年(昭和14年)に京都市に下賜され、1994年(平成6年)には「古都京都の文化財を構成する17の遺産」の一つとして世界遺産に登録された。 正式名称は「元離宮二条城」。 二の丸御殿6棟は国宝。 本丸御殿(旧桂宮邸) ・二の丸御殿唐門・東大手門など多くの建築物が重要文化財に指定されている。 |
家康と会見した秀頼は、家康の家臣・平岩親吉から毒入りの饅頭を勧められたが、加藤清正が救ったのだとか・・・ |
二条城の毒饅頭〜平岩重吉の豊臣秀頼毒殺未遂の噂〜 |
二条城が築かれたのは、桓武天皇が造営した神泉苑の地。 神泉苑は、大内裏(平安宮)の南東にあった禁苑。 弘法大師・後白河法皇・静御前・源義経の伝説が残された雨乞いの霊地だったが、二条城の築城により大きく縮小された。 参考まで、二条城の北には豊臣秀吉が平安宮跡地に築いた聚楽第があった。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮(大内裏)は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮(大内裏)の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
平安宮の跡地に建てられた聚楽第は、1595年(文禄4年)に破却された。 |
室町幕府十三代将軍・足利義輝の御所、 織田信長が室町幕府十五代将軍・足利義昭のために築いた御所、 信長の京都滞在中の宿所 なども二条城と呼ばれていたのだという。 これらが同じ場所にあったのかは不明だが、二条殿址は信長の宿所だった地と考えられている。 1582年(天正10年)、信長が明智光秀の謀反によって本能寺で自刃すると(本能寺の変)、嫡男の信忠は二条殿で自刃したのだという。 |
1583年(天正11年)、豊臣秀吉は藤原氏の邸宅だった閑院の跡地に妙顕寺城を築き、聚楽第が完成するまでの政庁とした。 |
豊臣秀吉を祀る豊国神社の唐門は、伏見城・二条城・南禅寺の塔頭金地院を経て豊国神社に移築されたもので国宝。 |
横浜の三渓園にある聴秋閣は、三代将軍徳川家光が1623年(元和9年)に二条城内に造らせたものと伝えられている。 その後、春日局に賜り、江戸稲葉邸に移されたのだという(国の重要文化財)。 |
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 地下鉄東西線「二条城前駅」からスグ。 JR嵯峨野線「二条駅」から徒歩約20分。 |
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