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伏見城は、1592年(文禄元年)に豊臣秀吉の隠居所として築城されたのが始まり。 翌年、嫡男の捨丸(のちの秀頼)が誕生すると、本城とするため大規模な改修工事が行われ、1596年(文禄5年)に完成。 しかし、直後に起きた慶長伏見地震で倒壊。 翌1597年(慶長2年)に新たな城が築き直され、5月4日、秀吉・秀頼らが入城。 一年後の1598年(慶長3年)8月18日、伏見城で秀吉が死去。 遺言により秀頼が大坂城に入り、徳川家康が伏見城に入ることになる。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの際には、家康が会津の上杉氏征伐に出陣している間に、石田三成の西軍に攻められ、大半が焼失(伏見城の戦い)。 伏見城の戦いでは、鳥居元忠ら800人が討死した。 その後、家康が再建。 1602年(慶長7年)、家康の生母・於大の方は後陽成天皇や秀吉の正室高台院に拝謁。 同年、伏見城で死去し、江戸小石川の伝通院に葬られた。 1603年(慶長8年)2月12日、家康は伏見城で征夷大将軍の宣旨を受け、3月12日には二条城へ移り、将軍就任の祝賀の儀を行っている。 1614年(慶長19年)に起こった大阪冬の陣では、二代将軍秀忠が伏見城から出陣。 大坂の陣後は居館として使用されていたが、1619年(元和5年)に廃城が決定された。 |
1600年(慶長5年)、家康の上杉討伐の際、伏見城を任されたのは鳥居元忠だった。 家康が出陣すると、石田三成らが挙兵し、伏見城が攻撃された。 元忠は籠城して戦い討死したのだという。 初めから死を覚悟して伏見城に残って戦った元忠は、三河武士の鑑と称された。 |
養源院は、淀殿が父・浅井長政と祖父・浅井久政らの追善のため建立した寺。 妹の崇源院は、大坂の陣で自害した淀殿と秀頼の供養を営んだのだという。 間もなく落雷で焼失してしまうが、崇源院が伏見城の遺構を用いて再興。 本堂の天井は、伏見城の戦いで自刃した兵士らの血で染まった廊下を使用しているのだという(血天井)。 |
鳥居元忠〜伏見城で討死にした三河武士の鑑〜 |
御香宮神社の表門は、伏見城の大手門を移築したもの。 境内には伏見城の残石も置かれている。 |
上御霊神社の南門は、伏見城の四脚門を移築したもの。 |
南禅寺の中門は、勅使門としても使われた門で、伏見城松井邸の門を移築したもの。 南禅寺の小方丈も伏見城から移築されている。 |
豊国神社の唐門は、伏見城・二条城・金地院を経て豊国神社に移築されたもので国宝。 |
西本願寺の唐門は、御影堂門として使われていた門で、伏見城の遺構とされるが・・・ 定かではない。 |
園城寺の大門は、豊臣秀吉が伏見城内に移築したものを徳川家康が園城寺に移築したのだという。 |
園城寺の三重塔は、豊臣秀吉によって伏見城内に移築されたが、徳川家康が園城寺に戻したのだという。 |
圓光寺は、徳川家康が教学のために伏見城下に建立したことに始まる。 |
高台寺は、秀吉の正室・北政所(高台院)が建立した寺。 観月台は伏見城から移築されたもの。 高台寺の塔頭圓徳院は、伏見城の化粧御殿を移築した高台院屋敷を始まりとするが、化粧御殿は焼失してしまった・・・ |
高台寺の茶室・傘亭と時雨亭は伏見城から移築されたもの。 1615年(慶長2年)、高台院は時雨亭の二階から燃え落ちる大坂城の天守を見つめていたのだという。 |
源義朝・源頼朝ゆかりの野間大坊(大御堂寺)の客殿は、伏見城内にあった建物。 |
月華殿は、徳川家康が1603年(慶長8年)に伏見城内に建てたのだと伝えられている(国の重要文化財)。 |
春草廬は、織田有楽斉が建てた茶室といわれている。 京都三室戸寺金蔵院から移築された(国の重要文化財)。 |
京都市伏見区桃山町大蔵45 京阪・近鉄「丹波橋駅」・近鉄「桃山御陵前駅」から徒歩15分 |
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