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平安遷都の794年(延暦13年)、桓武天皇が非業の死を遂げた弟・早良親王(さわらしんのう)の怨霊を鎮めるため御霊として祀ったのが御靈神社(ごりょうじんじゃ・上御霊神社)の始まり。 その後、井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫を合祀。 863年(貞観5年)には、神泉苑に六座の神座を設け悪疫退散の御霊会が催されている。 さらに六柱の荒魂(あらたま)・火雷神と吉備真備が合祀された。 本殿は、1733年(享保18年)に寄進された内裏賢所御殿の遺構を1970年(昭和45年)に復原したもの。 |
崇道天皇 (早良親王。光仁天皇の皇子) 井上大皇后 (光仁天皇の皇后) 他戸親王 (光仁天皇の皇子) 藤原大夫人 (藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母) 橘大夫 (橘逸勢) 文大夫 (文屋宮田麿) 火雷神 (以上六柱の荒魂。) 吉備大臣 (吉備真備) |
1467年(応仁元年)1月18日、管領を罷免され、家督を畠山義就に奪われた畠山政長は、細川勝元を頼り2千の兵を率いて御霊の森に陣を敷いた。 翌早朝、義就が3千の兵を率いて攻撃をしかけ激しい戦いとなったが、政長は耐え切れず退去したという。 この戦いが応仁の乱の発端となった。 |
「半日は神を友にや年忘」 1690年(元禄3年)、上御霊神社を参詣した芭蕉が奉納した句。 |
「千早振神のみめぐみ深くして八十ぢに満つる幸を得にけり」 広辞苑編者の新村出(しんむらいずる)が1956年(昭和31年)に上御霊神社を詣でた際に詠んだ歌。 |
「底津磐根に宮はしらふと
志り高天原に氷木たかしるは
たゞかみつ世の宮づくりに
あらず いでかしこきたくみの
神のたまはる斉砥は
かしてむ 手斧とくせよ
てをのとくせよ」 江戸時代の国学者・富士谷御杖が文政年間の本殿造営の際に寄せたもの。 |
1979年(昭和54年)の国際児童年にあたり、生命の尊重と子供達の健やかな成長を祈り、中国宋代の学者司馬温公の故事から建立されたもの。 清明心とは、清く明るく直き正しき誠の心。 |
京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495 地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」徒歩3分 |
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