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伝通院(でんつういん)は、1415年(応永22年)に増上寺開山の酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の師・聖冏(しょうげい)が開創した寿経寺を始まりとする。 正式名称は無量山伝通院寿経寺。 本尊は阿弥陀如来。 1602年(慶長7年)、徳川家康の生母・於大の方が京都の伏見城で死去すると、遺骸は遺言によって江戸に運ばれ、智香寺で火葬されたのだという。 翌年、家康は遺骨を小石川の地に埋葬。 寿経寺を移転し、於大の方の法号にちなんで院号を伝通院としたのだという。 1608年(慶長13年)に堂塔が完成。 増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所となり、のちに将軍家菩提所となる寛永寺とともに三霊山と称された。 増上寺の学問僧が移され、関東十八檀林の上席となり、多い時には1000人もの学僧がいたのだという。 1647年(正保4年)には、三代将軍家光の次男亀松が葬られ、1666(寛文6年)には、二代将軍秀忠の娘で豊臣秀頼の正室となった千姫が葬られている。 幕末には、新撰組の前身となる浪士組が結成され、彰義隊が結成されるきっかけの場ともなったのだという。 1945年(昭和20年)5月25日の空襲で焼失。 1949年(昭和24年)に本堂が再建された(現在の本堂は2012年(平成24年)の再建)。 |
家康は、母の於大の方を増上寺に葬りたかったのだという。 しかし、増上寺十二世の源誉存応(慈昌・観智国師)は、増上寺を開いた酉誉聖聡の師である聖冏ゆかりの地に新たな寺を建立するよう進言したのだという。 聖冏(酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ))は浄土宗第七祖。 浄土宗第八祖の酉誉聖聡は千葉氏胤の子で、母は新田義貞の娘と伝えられる。 家康は、新田氏を祖とする源氏を称していた。 |
千姫は、徳川二代将軍秀忠の長女。 母は、お市の方の三女・崇源院。 豊臣秀頼に嫁ぐが、1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で豊臣が敗れると徳川家康の命によ大坂城から救出された。 その後、姫路城主本多忠政の嫡男忠刻と再婚するが、忠刻の死により江戸へ帰り天樹院と号した。 1666年(寛文6年)2月6日死去。 葬儀は、伝通院で営まれ、墓所は伝通院と弘経寺(茨城県常総市)にあるが、徳川家ゆかりの知恩院にも分骨されたのだという。 |
天秀尼は、豊臣秀頼の側室が産んだ子。 千姫が養子にすることで助命され鎌倉の東慶寺に入った。 東慶寺は天秀尼の願いで徳川家康から縁切寺法を許可される寺となった。 |
女性を救った駆け込み寺〜鎌倉:東慶寺〜 |
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