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増上寺は、空海の弟子・宗叡(しゅうえい)が武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した真言宗の光明寺を前身とするとされる。 1393年(明徳4年)に浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)が浄土宗に改宗し、寺号も増上寺に改められた。 正式名称は、三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)。 本尊は阿弥陀如来。 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐後、関東移封となった徳川家康が、江戸入府の際に十二世源誉存応と対面したことで、徳川家の菩提寺となったのだという。 その後、増上寺は日比谷に移り、1598年(慶長3年)には江戸城の拡張に伴い現在地(芝)に移された。 江戸初期には、僧侶の養成機関・学問所としての関東十八檀林(浄土宗十八ヶ寺)が定められ、増上寺はその筆頭寺院となった。 盛期の増上寺には、120以上の堂宇や100軒を越える学寮が並び、3000人以上の学僧がいたのだという。 明治維新後の神仏分離により規模が縮小され、境内の広範囲が芝公園となっている。 1945年(昭和20年)の空襲によって大きな被害を受けた。 |
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増上寺は上野の寛永寺とともに徳川将軍家の菩提寺。 増上寺に埋葬されているのは・・・ 二代秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の6人の将軍 崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮(十四代家茂公夫人)ら5人の正室。 三代家光の側室桂昌院(五代綱吉公実母)はじめ5人の側室 三代家光第三子甲府宰相綱重など。 |
![]() 惣門 |
![]() 二天門 |
1945年(昭和20年)の空襲によって徳川将軍家の霊廟の大部分が焼失し、土葬されていた遺体は荼毘に付されて改葬された。 旧台徳院霊廟惣門と旧有章院霊廟二天門は、戦災を免れた貴重な門。 |
鎌倉の建長寺には、崇源院の霊牌所にあった建物が移築されている。 |
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増上寺の塔頭宝珠院の本尊は、源頼朝が信仰したという辯才天。 |
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芝東照宮は、徳川家康像を祀るために増上寺内に創建された安国殿が始まり。 芝大神宮は、源頼朝と徳川家康を合祀する社。 |
増上寺は徳川家康が菩提寺とした寺で、家康の葬儀が行われ、二代秀忠と正室の崇源院が埋葬されたことで徳川将軍家菩提寺としての地位が確立する。 三代家光は寛永寺で葬儀を行うことを遺言して死去し、遺体は日光山輪王寺に葬られた。 四代家綱・五代綱吉の葬儀も寛永寺で行われ、二人は寛永寺に葬られた。 これにより、幕府の祈願所だった寛永寺も将軍家菩提寺となる。 その後の歴代将軍は、六代家宣と七代家継が増上寺、八代吉宗は寛永寺、九代家重が増上寺、十代家治と十一代家斉が寛永寺、十二代家慶が増上寺、十三代家定が寛永寺、十四代家茂が増上寺に葬られている。 ただ、最後の将軍慶喜は、どちらの菩提寺にも入ることなく谷中墓地に葬られた。 |
渋沢栄一は、1909年(明治42年)に火災で焼失した増上寺の再建のため、1918年(大正7年)に設立された興勝会の副総裁となっている。 また、1926年(大正15年)には、皇女和宮(静寛院)の五十年祥忌法要に参列している。 |
東京都港区芝公園4−7−35 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
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