|
増上寺は上野の寛永寺とともに徳川将軍家の菩提寺。 増上寺に埋葬されているのは・・・ 二代秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の6人の将軍。 崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮(十四代家茂公夫人)ら5人の正室。 三代家光の側室桂昌院(五代綱吉公実母)はじめ5人の側室。 三代家光第三子甲府宰相綱重。 その他歴代将軍の子女多数。 旧徳川将軍家の霊廟は、御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいたのだという。 御霊廟は、墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高技術が駆使された厳粛かつ壮麗なもので、国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)3月10日の空襲で北廟が被災、5月25日の空襲では南廟が被災して、ほとんどの建物が焼失してしまった。 戦後しばらく荒廃したまま放置されていたが、1958年(昭和33年)から文化財保護委員会が中心となって学術調査が行なわれた後、土葬されていた遺体を荼毘に付して現在地に改葬。 各将軍の埋葬は、地中の設けられた石室に遺体を安置し、二枚の巨石を蓋にして、その上に基檀と宝塔が安置されるというものだったのだという。 |
鋳抜門は、文昭院殿霊廟(六代将軍徳川家宣)の宝塔前の中門だった。 青銅製で、左右の扉に5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている。 |
秀忠の戒名は台徳院殿(たいとくいんでん) 1579年(天正7年)生まれ。 家康の第三子。 豊臣秀吉から一字を賜わり秀忠と名乗る。 1632年(寛永9年)逝去。 台徳院殿廟奥院に祀られた宝塔は、装飾華麗で当時の芸術の粋をつくしたものだったが木造だったため戦災で焼失している。 お江の方の戒名は崇源院殿(すうげんいんでん) 1573年(天正元年)生まれ。 父は浅井長政、母は織田信秀の娘お市の方(織田信長の妹)。 1626年(寛永3年)逝去。 |
戒名は文昭院殿(ぶんしょういんでん) 1662年(寛文2年)生まれ。 三代将軍家光の三男綱重の子。 1712年(正徳2年)逝去。 |
戒名は有章院殿(ゆうしょういんでん) 1709年(宝永6年)生まれ。 六代将軍家宣の子。 3歳で将軍になったが、1716年(正徳6年)に8歳で逝去。 廟は父家宣の廟と並んで造営されていた。 |
戒名は惇信院殿(じゅんしんいんでん) 1711年(正徳元年)生まれ。 八代将軍吉宗の子。 1761年(宝暦11年)逝去。 |
戒名は慎徳院殿(しんとくいんでん)。 1793年(寛政5年)生まれ。 十一代将軍家斉の子。 1853年(嘉永6年)逝去。 |
戒名は昭徳院殿(しょうとくいんでん)
1846年(弘化3年)生まれ。 紀伊徳川家斉順の子。 正室は和宮親子内親王(静寛院)。 1866年(慶長2年)、出征途中の大坂城で逝去。 |
1846年(弘化3年)生まれ。 仁孝天皇の第8皇女。 十四代将軍家茂の正室。 家茂の死後、静寛院(せいかんいん)と称し、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くし、1877年(明治10年)薨去。 明治政府は葬儀を神式で行う予定だったが、「家茂の側に葬って欲しい」という和宮の遺言を尊重して仏式で行われたのだという。 |
合祀塔には、徳川綱重、家光側室で五代綱吉の生母桂昌院、十一代家斉正室広大院、家宣側室月光院らが埋葬されている。 この宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔。 |
旧台徳院霊廟 惣門 |
旧有章院霊廟 二天門 |
1945年(昭和20年)の空襲によって徳川将軍家の霊廟の大部分が焼失。 旧台徳院霊廟惣門と旧有章院霊廟二天門は、戦災を免れた貴重な門。 |
第二次世界大戦後の増上寺周辺の市街地区画整理に伴って、徳川家の遺物が全国の寺社に譲渡された。 甲州市の恵林寺に譲渡された石棺は、2015年(平成27年)に崇源院(お江)のものであることが判明している。 |
鎌倉の建長寺には、1647年(正保4年)、崇源院の御霊所にあった建物が移築されている。 |
建長寺の仏殿は、旧崇源院御霊屋。 |
方丈勅使門 |
西来庵中門 |
方丈勅使門は旧崇源院御霊屋の中門、西来庵中門は唐門だったのだという。 |
金戒光明寺の崇源院の宝篋印塔は、崇源院と三代将軍を争った春日局が建立したもので、崇源院の遺髪が納められているという。 |
初代徳川家康は久能山に葬られた後、日光東照宮の奥宮に改葬されたのだという。 三代家光は日光山輪王寺の大猷院に葬られた。 |
久能山東照宮 |
徳川家康宝塔 |
日光東照宮 |
徳川家康宝塔 |
日光山輪王寺 |
大猷院 (徳川家光廟所) |
東京都港区芝公園4−7−35 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|