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新田義重は、河内源氏・源義国の嫡子。 八幡太郎と称された源義家は祖父。 上野国新田荘を本拠とし、新田氏の祖とされる武将。 |
源義家 |
義国 新田氏・足利氏の祖 |
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1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に際し、甥の足利義兼・子の山名義範・孫の里見義成らは早いうちにその麾下に入った。 しかし、義重は事の成行きをうかがって去就を決しなかったことから、頼朝の反感を買ったといわれる。 武田信義や木曽義仲と同じように独自行動をとっていたらしい。 さらに、頼朝に娘の祥寿姫(源義平の未亡人)を乞われて拒否したことで機嫌を損ねたともいわれる。 いずれにしても、頼朝の鎌倉幕府創設には非協力的であったため、新田氏は幕府での要職に就けなかったのだといわれる。 対照的に、甥の義兼は北条時政の娘を妻とするなど、その地位を確立している。 |
![]() (頼朝の麾下に入らず八尾城に籠って軍兵を集めた新田義重と、頼朝の下に参じた里見義成) |
祥寿姫は、京都で晒された義平の首を故郷に持ち帰り葬ったのだという。 清泉寺には義平の墓がある。 |
義重の四男義季は新田郡徳川郷(得川郷)を領して「徳川(得川)」を称したのだという。 義季の子孫が三河の戦国大名松平氏の祖となる松平親氏へと繋がり、さらに徳川家康に繋がるのだとか。 義季は新田郡世良田郷も領したので「世良田義季」とも呼ばれる。 |
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長楽寺は義季が創建した寺院。 義季の館跡には徳川東照宮が建立されている。 |
義重は1202年(建仁2年)1月14日に死去。 『吾妻鏡』によると・・・ 1月29日、源頼家は中原親能の屋敷で蹴鞠を予定していた。 しかし、北条政子は「源氏の長老が亡くなって二十日も経っていないのに蹴鞠とは・・・」と叱責したのだという。 義重の幕府内での立場は微妙だったが、武神と呼ばれた八幡太郎義家に一番近い者としても尊敬されていたのだという。 |
世良田東照宮は、義重の館跡に建てられた。 |
徳川氏の祖とされる四男義季の徳川館跡には、義重夫妻のものと伝わる墓塔がある。 |
新田義貞は、新田氏の八代目の棟梁。 鎌倉幕府の足利氏と新田氏への処遇の差は、鎌倉幕府滅亡へとつながり、足利尊氏と新田義貞の対立へとつながることに。 1333年(元弘3年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けた新田義貞は生品神社で挙兵。 鎌倉幕府を滅ぼしたが、足利尊氏と対立して越前国で最期を遂げている。 徳川家康が菩提寺とした増上寺の開山・酉誉聖聡の母は義貞の娘なのだという。 |
「遠祖は上野国を本拠とした新田氏」と称していた徳川家康は、1611年(慶長16年)、先祖と仰ぐ義重に鎮守府将軍、父の松平広忠に権大納言を贈官している。 |
三河国加茂郡松平郷は、義重の子孫・松平親氏が辿り着いた地。 親氏から始まる松平宗家の九代目が徳川家康。 |
![]() (豊田市) |
![]() (豊田市) |
松平東照宮は、松平郷の親氏の館跡に創建された家康と親氏を祀る神社。 高月院は親氏と松平氏二代当主の泰親の菩提寺。 |
群馬県太田市金山町37−8 |
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