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1562年(永禄5年)、清州城で織田信長と清州同盟を結んだ松平元康(徳川家康)は、翌年、名を家康と改めた。 徳川氏創業の事蹟を伝える『朝野旧聞裒藁』には・・・ 「此秋、御諱、元康を改て家康と称し給ふ」 と記されている。 「元康」は、少年期を今川氏の人質として過ごした駿府で、今川義元の「元」と、祖父の松平清康の「康」をとって付けられた名。 1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い後、今川氏からの独立行動をとって誕生地である岡崎城を奪還した家康は、名を改めることで完全に今川氏と決別したのかもしれない。 「家」は、母・於大の方の夫・久松長家(継父)の一字ともいわれ、後年、長家は家康に遠慮して俊勝に改名したのだともいわれる。 名を改めた1563年(永禄6年)、家康の嫡男信康(幼名は竹千代)と信長の娘徳姫の婚約が成立。 さらに、1566年(永禄9年)、三河国をほぼ平定した家康は、従五位下三河守に叙任され、松平から徳川に名字を改めた。 これには、関白近衛前久と京都の誓願寺の住持泰翁の尽力があったのだという。 そして・・・ 1568年(永禄11年)、遠江に侵攻した家康は、曳馬城を落とし、翌年2月には掛川城の今川氏真を降伏させている。 |
掛川城を開城した後の今川氏真~徳川家康の援助を受けた生涯~ |
現在では、「氏」「名字」「姓」が同じもののように扱われているが、昔はそうではなかった。 例えば、源頼朝の「源」は源経基が清和天皇から賜った氏。 北条義時の「北条」は地名からとった名字。 義時は桓武天皇から「平」を賜った平高望の子孫ということなので氏は「平」となる。 「氏」は、同一の始祖から発した血族。 「名字」は、氏から派生した直系親族集団で「家名」につながっていった。 「姓」は、「真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置」のこと(八色の姓)で、多くの氏が「朝臣」を称している。 「真人」は皇族に与えられたため「朝臣」は事実上の最高位。 頼朝や義時も「朝臣」。 頼朝の正式名称は「源朝臣頼朝」。 「天皇から賜った源の血筋を引く頼朝」という意味。 義時の場合は名字・通称があるので「北条平朝臣小四郎義時」となるようである。 江間家の当主だったことから「江間平朝臣小四郎義時」とも。 |
氏・名字(家名)・姓を変えるには勅許が必要となる。 参考までに、鎌倉幕府の政所別当を務めた大江広元は、中原を名乗っていたが、大江に改めるため朝廷に願い出て許しを得ている。 家康の場合は・・・ 1566年(永禄9年)、従五位下三河守に叙任され、松平から徳川に名字(家名)を改めた。 三河国をほぼ平定した家康にとって、三河守の称号はどうしても欲しいところ。 そのためには、出自不明の一豪族では無理なので、氏姓を整える必要があった。 清和源氏(河内源氏)の嫡流である新田義重の末裔を称していた家康は、義重の四男義季が名乗った「徳川」に家名を変える必要があったものと考えられる。 しかし、正親町天皇は先例がないとして反対だったのだという。 では、何故認められたのか? 関白近衛前久が子の信尹に宛てた書状によると・・・ 神祇官の吉田兼右が園万里小路家から 「徳川氏は源氏で、二つある系統の一つは藤原氏に改姓している」 ことを表した系図を探し出したのだという。 前久が、この系図を先例として奏上したことで、勅許を得ることができたのだとか。 この前年に参内を許されていたという誓願寺の泰翁の尽力もあったようである。 ただ・・・ 「徳川」の家名は、源氏ではなく藤原氏として認められた。 その後、家康は状況に応じて藤原氏と源氏を使い分けていたようだが、正式に源氏となったのは、征夷大将軍となる1603年(慶長8年)の直前だったのだという。 正式名称は「徳川源朝臣次郎三郎家康」。 |
泰翁は、三河国岡崎の出身。 浄土宗西山深草派の僧侶で、平安時代末期に相模国の衣笠城を築いた三浦為通の末裔とされている。 三浦為通は、三浦氏の祖といわれ、源頼朝の鎌倉幕府創造を支えた三浦義澄・義村父子の先祖。 泰翁は、岡崎の松平家の菩提寺・大林寺四世となり、京都の誓願寺の五十一世になったのだという。 |
大林寺には、徳川家康の祖父松平清康・父広忠・清康夫人春姫の墓がある。 |
誓願寺は、平安時代に清少納言や和泉式部などの女性から信仰され「女人往生の寺」と呼ばれた。 紫式部の同僚女房として中宮彰子に仕えた和泉式部は、娘の死をきっかけに誓願寺で出家し、藤原道長から法成寺内に一庵を与えられたのだという。 その庵が誓願寺の南にある誠心院の前身。 誓願寺には、源義経に仕えた武蔵坊弁慶が愛したと伝わる弁慶石も置かれていた・・・ |
徳川家康は、1542年(天文11年)、岡崎城で誕生。 |
信長と家康が清州同盟を結んだ清州城(清須城)は、信長が尾張支配の本拠地とした城。 |
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