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徳姫(とくひめ)は、織田信長の長女。 1559年(永禄2年)に誕生。 母は、側室の生駒吉乃といわれている。 五徳(おごとく)とも呼ばれた。 1567年(永禄10年)、徳川家康の嫡男・松平信康と結婚。 1570年(元亀元年)、家康が岡崎城から浜松城に移り、信康が岡崎城主となったことで岡崎殿と呼ばれるようになる。 1576年(天正4年)に長女の登久姫を、翌年には次女の熊姫を出産するが・・・ 姑の築山殿は、なかなか嫡子ができないため、信康に元武田氏の家臣の娘などを側室として迎えさせた。 このことが築山殿との不和へとつながり、信康との関係も冷え切っていったのだという。 心配した家康や信長が岡崎に様子を見に来たこともあったのだとか。 |
※ | 浅原昌時の娘や日向時昌の娘などが信康の側室となったらしい。 |
姑と夫との仲がこじれた徳姫は・・・ 1579年(天正7年)、築山殿と信康の罪状を記した十二ヶ条の訴状を作成。 詳しい内容は不明だが・・・、 「築山殿は甲斐国から呼び寄せた唐人医師・減敬と密通し、武田勝頼と内通していた」 「信康は、気性が激しく、乱暴な振る舞いが多い人物」 といった事が書かれていたらしい。 訴状を読んだ信長は、酒井忠次を通じて家康に築山殿と信康の殺害を命じたのだという。 そして・・・ 8月3日、岡崎城に入った家康は、翌日、信康を遠江国の堀江城に移し、さらに二俣城に移した。 築山殿は浜松城へ移されることになるが、8月29日、その途中の遠江国小藪村で殺害され、信康は9月15日に二俣城で自害(切腹)させられている。 |
徳姫の訴状を安土城に届けた徳川四天王のひとり酒井忠次は、信長に訴状の内容について問われたが、事実と認めたのだという。 ただ、近年の研究では、築山殿の殺害と信康の切腹は、徳姫の訴状が原因ではないとする説がある。 |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜 |
西来院の月窟廟は、殺害された築山殿の廟堂。 |
二俣城は、信康が切腹した城。 |
清瀧寺は、徳川家康が松平信康の廟所として建立した寺院。 |
萬松院は、信康が自刃した当時、二俣城の城主だった大久保忠世が、のちに城主となった小田原城の城下に信康を供養するために創建した寺院。 信康を自害させたことを悔やんでいたという忠世は、1594年(文禄3年)、信康が自害した日と同じ9月15日に死去。 自身が創建した大久寺に葬られたのだという。 |
西念寺は、信康の介錯を命じられたという服部半蔵が信康の慰霊のために創建した安養院を前身とする寺。 信康の供養塔と半蔵の墓が残されている。 |
松平信康の介錯を命じられた服部半蔵 |
1580年(天正8年)2月20日、岡崎を出た徳姫は、父信長の安土城がある近江に移って暮らしていたが・・・ 1582年(天正10年)6月2日、明智光秀の謀反により信長が本能寺で横死(本能寺の変)。 兄の信忠も二条殿で横死。 徳姫は次兄の信雄に保護されたが・・・ 1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の人質として京都に移り、 1590年(天正18年)には、信雄の改易によって生駒氏の尾張国小折に移り、 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後は、清洲城主の松平忠吉の保護を受け、その後は京都に隠棲。 1636年(寛永13年)正月10日、死去(78歳)。 墓所は、大徳寺にある信長の塔所・総見院。 長女の登久姫と次女の熊姫は、徳姫が岡崎を去った後、家康と側室・西郡局に養育された。 登久姫は小笠原秀政の正室となり、 1607年(慶長12年)に死去(32歳)。 熊姫は本多忠政(本多忠勝嫡男)の正室となり、1626年(寛永3年)に死去(50歳)。 |
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