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大徳寺塔頭総見院

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大徳寺総見院


 総見院(そうけんいん)は、1583年(天正11年)、羽柴秀吉が本能寺の変で横死した織田信長の追善のために建立。

 開山は大徳寺117世古渓宗陳。

 名称は、信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」からのもの。

 本尊は織田信長坐像(重文)。

 墓地には、信長をはじめ、長男信忠・次男信雄・四男羽柴秀勝・徳姫らの供養塔が建てられている。



〜織田信長像〜

 本能寺の変から100日後の1582年(天正10年)10月10日、秀吉は大徳寺で盛大な葬儀を執り行った。

 喪主は、信長の四男で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝。

 秀吉は葬儀に先立って、香木で二体の信長像を作り、一体は葬儀の際に棺に納めて火葬したのだという。

 もう一体は、総見院の本尊といわれている。

 ただ、像底の朱書銘には、「天正十一年五月吉日 七条大仏師宮内卿法印康清」とあり、信長の一周忌のために製作されたものらしい。





織田信長墓所
リンクボタン阿弥陀寺の織田信長墓


 阿弥陀寺は、信長の遺骨が葬られたという寺。

 秀吉は当初、阿弥陀寺で葬儀を営もうとしたらしい・・・

 しかし、信長の後継者ということ世に示すため葬儀を利用しようとする秀吉に、阿弥陀寺の玉誉清玉は、

 「既に葬儀は営んでいる」

 として断ったのだと伝えられている。

 秀吉が大徳寺の葬儀で信長像を火葬したのは、信長の遺骨を手に入れることができなかったためと伝えられる。 



本能寺の変









大徳寺
リンクボタン大徳寺

 大徳寺は、1315年(正和4年)創建の臨済宗大徳寺派の大本山。
 戦国武将から信仰され、境内には多くの塔頭が建ち並ぶ。


京都市北区紫野大徳寺町53

JR京都駅から市バス「大徳寺」下車。



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